[コメント] ひかりごけ(1992/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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原作では、西川は十代の美少年。だからこそ、船長が彼に迫るシーンが活きてくる。西川は船長に食われまいとして死のうとする。船長は言う。「何で意地悪いことするだ、おめえはもっと、素直な男でねえか」カニバリズムに加えて、エロティックな感じがする場面である。奥田瑛二でもいいのだが、これが美少年ならば、もっと違う印象を与える場面になったのではないだろうか。
この映画は、実話がもとになっているものの、実際には、実話をもとにして武田泰淳が書いた作品がもとになっている。驚くほど原作に忠実である。別に、映画を理解するのに原作の助けを借りる必要はないと思うが、たまたま読んでいたので、この作品がどことなく難解な印象を与えてしまっていることに気がついた。
三國連太郎をはじめとする、俳優たちの演技は素晴らしい。船長が初めて人肉を口にするシーンの表情。ぞっとした。やはり、映像によってもたらされる衝撃は大きい。ただ、残念ながら、最後の法廷のシーンと、校長の存在が非常に分かりづらかったと思う。
検事や裁判長は、社会通念とか法の象徴だと私は思うのだが、それを実際に俳優が演じているのを観てみると、その人の個性が出てしまって、とても人間くさかった。その為、「私はひたすら我慢しているのです」という、船長と検事の問答が長ったらしく感じられ、この問答の意図していることが伝わらず、検事が途方もないお馬鹿さんに見えてくる。この法廷の場面の検事や裁判長は、個性的すぎてミスキャストだったと思う。
そして、光の輪を背負った傍聴人に、船長が取り囲まれるシーン。原作には確か、この場面の船長は“処刑されるキリストのように”と付け加えられていたはずだ。だから言葉も方言ではなく、理知的なものになっていた。でも、そうと知らずにこれを普通に観たら、光背のいかがわしさも手伝って、ちぐはぐな印象を受けると思う。船長の犯した罪は、とても法で裁けるものではなく、船長はひたすら生き続けることに我慢しているのだということが伝わったとしても、船長個人に限定された罪の追及ではなく、ある一つのことへの問いかけを行う過程で、校長と船長とキリストが連続的に一つのものに収斂されてゆく、という構図は伝わらないのではないだろうか。
実際に起きた事件というよりも、「ひかりごけ」という作品を忠実に映画化しているからには、光の輪やキリストというモチーフに込められた作者の意図が、多少なりとも伝わる作品であって欲しかった。
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