[コメント] 菊次郎の夏(1999/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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本作で出てくる遊びは、北野武(ビートたけし)の幼少時、浅草のストリップ小屋での修行時代、ツービート時代、たけし軍団全盛期など、彼の半生を通して彼が目にしてきたものや作り出したりしてきたものを体現していた。
他の方も指摘されていたが、たけし演じるおじさんの名が菊次郎であることは最後まで明らかにされない。(宣伝などで初めから否応無しにわかってしまうのが悔やまれる。)
数かずの遊びは子どもの正男を楽しませるために存在したが、それは菊次郎自身が求めていたものであり(事実彼は、自分からすすんで遊びを提案している)、同時にそれはたけし本人が楽しんできたものでもあった。その意味で正男は菊次郎と重なり、たけしとも重なる。つまり、「正男の夏」でもあり、「たけしの夏」でもある。それらを繋ぎとめるのが、『菊次郎の夏』というあのタイトルだったのだと思う。
テンポや間が妙に間延びしていると感じるシーンも多かったが、全体的にはやがて寂しき夏休みがスクリーン一杯に描かれていた。芸人というのは人を笑わせる存在でありながら、どこか哀愁が漂う存在でもある。うまく泳ぐことのできない菊次郎は、あちこちで世の中と衝突していく。それでもなんとか泳ごうと、つよがる彼が時折見せる表情のせつなさ。ここでも、いろいろなものが重なっていく。
目的を忘れて(失って)、ひたすら遊ぶ後半のシーンに自由を感じた。それでいて、自由を放埓なままに放置せず、しっかり子どもを送り届けて締めくくるところに慎ましさを感じた。楽しかった夏休みが終わった時の、腹いっぱいだけどどこか寂しい気持ちを思い出し、映画の世界に浸ることができた。カンヌ上映時に本作に向けられた拍手の嵐。そのとき北野武は少し涙ぐんでいた。その時彼が何を考えていたかはわからないが、印象的な光景だった。
*私の自宅近くの川に突然現れたアゴヒゲアザラシ、最初はその騒擾ぶりに不快感を抱いていたが、実際に現場を見てみると、なかなかアザラシが出てこなくて休日を川の前で無為に過ごすファミリー連れや老夫婦の姿などひどく健康的でピースフルな風景が広がっていた。「タマちゃんいないの?」と寂しげに親に尋ねている子どもの姿などを見ると、せめて義太夫あたりにメイクをほどこして(再)投入したくなる気持ちになった。私も年をとったのだろう。水質ワースト3位のあの川のきらめきが、いつもより少しだけ綺麗に映った。
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