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[コメント] 月光の囁き(1999/日)

自然に、そして淡々と。
ちわわ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 たとえば谷崎潤一郎の『』。ここでは、一人の女性の魅力が通常ではないものとして表現されているから、普通のカップルが異常の方向へと導かれていく。谷崎が耽美主義であるのはこの点にある。

 たとえばマルキ・ド・サドの小説。ここでは、作者の想像力は悪をこれ以上の悪、これ以上の悪へと駆り立てていく。だからこの悪は、あくまでも観念的であり、それゆえ激しい情念のようなものは感じられぬ。18世紀的、古典主義的と称される理由はそこにある。 個人的に『ジュリエット』より『ジュスティーヌ』のほうが好みであるのは、前者では主人公自体が悪の権化として表現され、後者ではそれに反発するものとして表現されているわけだが、後者のほうがまだしもその異常性が強調されているからであろう。

 そうかんがえると、この映画で僕が真っ先に思い出したのは、マゾッホの『毛皮のビーナス』のほうである。この小説では、主人公の男の被虐趣味が女性をひとりの女主人としていくのであるから、この映画と一致する。しかしこの作品では、作者の幻想趣味への異常な関心がワンダをつくりあげたわけだから、19世紀的ロマンティズムとでもいうべきものが強くみてとれる。

 20世紀の終わりにつくられたこの映画の基盤にあるのは、むしろ自然さのうちにあると思う。主人公の高校生日高は、最初から異常者として描かれているわけではない。一人の女性に憧れ、そしてその女性に密かな、抑制された関心を持つことは誰だって経験があろう。その抑制が異常というべき形をとることも人間的な性のありかたである。そんな男性がひとりの女性と性的関係をもつときに、現実が満足に受け止められぬことも決して不思議なことではない。  だが、その日高の密かな秘密をあいての少女北原が知ってしまったとき、日高には「変態」としてのアイデンティティが生まれてしまったのだ。「かあちゃんおれは変態や」という言葉を発するシーンはこの映画でもっともすばらしいシーンのひとつである。  それからの日高の北原への関係は、この変態性をなしにしてはありえないものとなる。たまたま口にしていた「犬になりたい」という言葉が二人を結ぶキーワードになっていく。

 そしてさらに北原のほうも、日高には女主人として関係を持つ以外に関係をもつことができなくなってしまう。もともとそんな関係を彼女は望んでいたわけではなかったにせよ。少女北原の少年日高への関心もまた、その「変態性」という形でしかありえないものとなったのだ、と思う。  その経過がこの映画ではたいへん「自然」に表現されている。これは観念的な自然主義とは別のものであることはいうまでもない。

 思うに人間の関係はともにひとつの物語を生きるということで満たされるものだと思う。その物語がどのようなものとなるかは、偶然的なものだ。二人の関係が普通のカップルのものになることも十分にありえた。だが偶然がそうさせなかった。他者との関係は不思議なものだ。ある人間にはひたすら従属的になり、ある人間にはひたすら高圧的になり、そうでなければ関係がたもつことができぬ、こんな経験はだれでももっているはずだ。

 しかしこの映画が感動的であるのは、その「異常」な関係のうちに、日高の北原への真剣さ、北原の日高への真剣さが見えてくるところにある。そこに一種「普遍的な愛への確信」というべきものさえ感じられるかもしれない。最後のシーンにカタルシスがあるとすれば、そこにあると思う。この二人、結構いいカップルになると思うぞ。

 にしても、気の毒なのは引きずり込まれた植松さんやな・・・・。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)林田乃丞[*] ボイス母[*]

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