[コメント] 月光の囁き(1999/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
例えば女のコを好きになると、少年というのはその女のコとのセックスを思い浮かべたりするわけですが、非モテ少年の場合、女のコを好きになりすぎると、どうしても「あんなに素敵なレディが自分なんかに股を開くわけがない」などという大変に卑屈な感情に襲われることがあります。そうなると、たとえ妄想の中でさえ彼女と自分との理想的な関係(つまりは愛のあるセックス)を上手に思い描くことができなくなるのです。
しかしそれでも彼女と何としても繋がりたいという欲求だけは抑えられるものではなく、結果として「足だけなら舐めさせてくれてもおかしくない」だとか「靴下のニオイ嗅ぐだけなら自分でも出来そうだ」とかいう、いくぶん現実感のある妄想に耽るわけです。これくらいのシチュエーションなら、どうにかこうにか上手に思い描けるものだから、そればかりに執心することになり、いつしかその「歪んではいるが実現可能だと思われる」以上の関係をイメージすることを止めてしまうのです。
と、このように「自分なんぞが神聖なるマドンナに受け入れられるはずがない」という諦観から始まった歪んだ妄想こそが、日高少年のフェチを形成しているわけです。つまり日高少年は決して生まれながらの変態というわけではなく、また、純然たる「靴下フェチ」や「フトモモフェチ」などでもなく、彼女への熱い気持ちを抱きながら自らの謙虚さや卑屈さによって抑制されたがゆえに現出してしまった、純度100%の「さつきちゃんフェチ」なのです。
ところで、一方のさつきちゃんはといえば、そんな日高少年の想いなど知る由もなく、平気で告ってしまいます。日高少年が妄想ですら思い描くことができなかった「普通の彼氏彼女」な日々をごく当たり前に標榜して、さっさと体を許してしまいます。自転車の二人乗りで通学したり、風邪をひけば熱心に看病したりという恋人同士の関係がしかし、日高少年には想像を絶する日々だったわけです。
ですから、日高少年の頭脳はその日々を処理することができません。一度はフトモモ写真を焼き払おうと決意したものの、結局捨て去ることができません。彼の「夢にまで見た日々」は、こんな関係ではなかったからです。小さなプールで泳ぐことばかりをイメージトレーニングしてきた彼ですから、いきなり荒ぶる大海に放り込まれても、何するものぞ、なのです。
そんな日高少年を、我らがマドンナは理解しません。当然です。どんな女子だって「好きな男子が私のことを好いていたらいいな」とは思っても「私の脚を舐めたがっていたらいいな」などとは決して思わないでしょう。ずっと好きだった男子が、実際付き合ってみたら、すごく変だ。どっからどう見ても変態だ。その事実に、マドンナは戸惑うことになります。
さつきちゃんが日高少年に強いた数々のアブノーマルな仕打ちは、「自分が好きだった男子が実は変態」という事実を打ち消そうとする行為だったのではないでしょうか。「ここまでやれば普通キレるはずだ」「普通の男子なら、私に幻滅するはずだ」「早く私の前からいなくなってよ」「私は、自分が変態を好きだったなんて思いたくないんだから!」──彼女が望んでいたのは「普通の彼氏彼女」という関係でした。だから、あまりにも理想とかけ離れた日高少年の実態がどうしても信じられなかったのです。信じたくなかったのです。
ですが、死ねといわれて死ににいった日高少年を見て、ついにマドンナはそれが「愛」であったことを理解します。否、理解はとっくにしていたのですが、自分自身がそれを理解することを諒解したのです。恋に恋していた少女が、歪んだ愛もまた愛であると受け入れたのです。
ラスト、彼女は「マルケンを誘って海に行こう」と提案します。このふたりの歪んだ恋人関係を、丸っきりそのまま友人に対して、つまりは世界に対して「開く」決意をしたのです。このまま、こうして2人は生きてゆく、私たちの幸せはここにあるという宣言です。なんとポジティブなハッピーエンドでしょう。
きっと10年も経てば、2人はごく普通の恋人同士か夫婦になっているでしょう。少年にとって想像を絶する関係であったとしても、その関係が既成事実となれば人間は慣れてゆくものですから。
『月光の囁き』は、ひとりの日本人少年の「激情」と「慎ましさ」を同時に描き切った見事な物語だと思います。あと、適度にエロいところが良かったです。
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