[コメント] ストーカー(1979/露)
原作も読んでないし、極めて感覚的人間で単純な性格なので、かなり頓珍漢なことを書くと思いますが、ご勘弁下さい。タルコフスキー・ファンの方は特に。
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『ちびまる子ちゃん』にも出てくる逸話なのだが、皆さん、子どもの頃、家の近所から少し遠出をして「探検」した経験はおありになるだろう。そこで発見遭遇するのが、美しい緑の草原であったり、エドガー・アラン・ポーの小説か何かに出てきそうな洋館だったり、日常的な場所ではない、何か特別な異次元のような場所で、心ときめかせる。「秘密基地」なんて名前を付けたりして。やがて日も暮れなずむ頃、遊び疲れて、どうにか家に戻る。そして、後日改めてまたその「場所」へ戻ろうとするのだが、どうにもこうにも前来た道が思い出せず、結局諦めてしまった経験はないだろうか?
僕は、「ゾーン」というのは、そういう<時間の中にある場所>ではないかと、感じた。
思うに、人間は、時を経ると、自分が思い描く「理想」としての「最終的幸福」を獲得するための「道具(たとえば、金や才能)」を手にしていく、その代償として、同時に喪失していかねばならぬものが、その「ゾーン」なのではないだろうか。
そして、いくら「道具」を手にし、振り翳したところで、思いとは逆に「幸福」から乖離していく己の姿を鏡に見る時、人は絶望の淵に立ち、かつての楽園、ゾーンを思慕するのではなかろうか。(だから、あながち、ホッチkiss様のコメントが映画に関係ないとは、僕は思いません。いや、ホッチkiss様が「絶望」しているとは思いませんが。笑)
ゾーンに向かうストーカー(案内人)と学者と作家が交わすダイアログ、そして特にストーカーのゾーンに対する感情・感覚は、前述の思慕や憧憬を行動原理としつつ、ゾーンに対するヌミノーゼ的(*)な側面が如実に反映されていると思う。 (*「ヌミノーゼ(numinous)」:ドイツの神学者ルドルフ・オットーが著書『聖なるもの』で使った言葉。人間が神秘体験や宗教経験にの際に抱く、「畏怖」と「魅了」という相反する要素からなる原始的な感情。人間がそうした非合理的な感情を抱くがゆえに、神秘という、それ以外に還元不可能な体験が生まれる。)
しかし、自らが見捨てた場所を、一度でも「絶望の味」を知り、信じる心(religion)をも喪失した者が、果たして取り戻すことは可能であろうか?いや、そもそも、果たして、その「場所」が、それを我々に許すのだろうか?子どもの頃の秘密基地は、今もあそこにあるのだろうか?中学の頃の廃屋は、今もあそこにあるのだろうか?あったとして、僕はそこにたどり着けるのだろうか?
この作品を観ながら、ふと目を閉じ、思いを馳せる…zzz…いや、寝てないってば!
[京都みなみ会館/1.17.02]
〔★3.75 よって暫定的に★4〕
追記:
*1 タイトルの"losing my religion"は、バンドR.E.M.の「Out of Time」(91年)というアルバム収録のヒット曲です。「ストーカー」の家の雰囲気が、この曲のヴィデオクリップの部屋のものと似ていたことと(「ミルク」も登場!)、歌詞が合うな、と思ったので使いました。
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