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[コメント] 非情の罠(1955/米)

デビュー作から遺作まで、キューブリックの全作品は「映画の韻」で繋がる連作だった。(全作品ネタバレあり)
たわば

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







そもそも映画において「韻を踏む」というのはどういうものか。個人的な解釈で説明すると、シーンが切り替わる際に「場面と場面に類似点を持たせて繋ぐ演出法」だと思っている。でもそれは、普通だったら一本の映画の中で「場面と場面」を繋ぐものであるのに対し、キューブリックは「作品と作品」を韻で繋ぐという荒業をやってのけた。どういうことかと言うと、彼はそれぞれの作品のエンディングと、その次の作品のオープニングを「映画的な韻」で繋いでおり、しかもそれを第一作目から遺作までの全作品を通してやってのけたのだからビックリだ。

では順を追って韻を拾っていくとして、まずはデビュー作「非情の罠」のラストシーンから始めたい。この作品は駅の構内のシーンにタイトルが表示されて終わるというエンディングで、背景にある鉄柱が縦のラインを強調していた。続いて二作目「現金に体を張れ」のオープニングは、競馬場の厩舎?の中で始まり、そこにタイトルが表示される。厩舎の中には鉄柱が何本もあり、タイトルも前作「killer's kiss」と今作の「The killing」は「kill」の部分がかぶっている。さらに、駅では列車の発車ベルが鳴り響き、競馬場ではスタートのベルが鳴るという共通点が見受けられる。よってこの二つの作品は「映像と音」による「映画的な韻」で繋がっている、と言えるのではないだろうか。ただし、これだけでは「ただのこじつけでは?」と言われても仕方あるまい。

そこで「現金に体を張れ」のラストシーンに注目してほしい。飛行場で荷物運搬車が犬を避けてカバンが落ちて札が舞う有名なシーンである。これに対し次の「突撃」では、兵舎の広場で自転車が画面を横切った後、兵士の集団が歩いてゆく。そこには馬もおり、この二つの場面は「開けた場所、動物、車が横切る、複数の物体」という「映像的」な特徴で韻を踏んでいるのがわかる。さらに「突撃」のラストシーンは、カーク・ダグラスが退場し、見張りの兵士が立っている場面で終わっているが、次の「スパルタカス」ではローマの見張りの兵士から始まり、次にカーク・ダグラスが登場という「同じ俳優と反転する流れ」の韻で繋がっているのである。

そして「スパルタカス」のラストは、女性がスパルタカスの足にすがった後、一本道を馬車で去っていく場面で終わるのだが、続く「ロリータ」は女性の足のアップで始まり、一本道を行く車に場面が切り替わり、続いて屋敷の場面に移ると屋敷の中にはローマっぽい置き物があり、さらにピーター・セラーズのセリフは「私はスパルタカスだ!」という疑いようのない「類似」の韻であった。その「ロリータ」のラストは、絵画の向こう側で死んでいるピーター・セラーズ(画面には見えない)で終わり、「博士の異常な愛情」ではコンピューターからプリントアウトされた紙の向こう側から彼が登場するという「同じ俳優と反転する流れ」の韻である。

そして「博士の異常な愛情」は太陽のような水爆の光で終わり、「2001年宇宙の旅」は夜明けの太陽から始まっている。さらに「博士〜」に出てくるケン・アダムのデザインによる作戦室の円形テーブルは「2001年〜」の宇宙ステーションの円形にかぶって見える事を考えると、「博士」において東西冷戦で争う人類は「2001年」の水場を争う猿とかぶって見えるという「皮肉」な韻である可能性も否定できない。

また「2001年〜」ラストはスターチャイルドが正面からこっち(画面)を見つめて終わり、「時計じかけのオレンジ」でもアレックスは正面を向いてこちらを見ているという「視線」で韻を踏んでいる。さらに「時計じかけのオレンジ」のバーである「黒い部屋」に飾られた白い女体の卑猥なオブジェは「2001年」の「白い部屋」にある白い女性像の置き物と「真逆」の韻で繋がっている。その「時計じかけのオレンジ」のラストではなぜか貴族が登場し、「バリー・リンドン」の貴族社会の物語へとバトンをつなぐという「コスチューム」の韻だった。細かいところでは「時計〜」のラストでお見舞いに来た大臣のシャツの柄と「バリー」の従兄弟のノーラが身につけていた首のリボンの柄は同じ「ヘビ」柄だったりする。

さらに「バリー・リンドン」のラストはナレーションで「善き者も悪しき者もすべてあの世」と締めくくり、「シャイニング」では「あの世」の悪霊の話になる。言わばこれは「あの世」つながりの韻である(笑)それに加えて「バリー」の最後の場面は、室内にいる男女4人(男3人女一人)と背景に大きな人物画が見えるカットなのだが、続く「シャイニング」の主要人物も男女4人(同じ比率)と過去の亡霊による室内劇という類似点がある。しかし「バリー」は1975年制作で「シャイニング」の原作は1977年発表であることを考えると、これは予め決められたものではなかったはずであり、単なる偶然なのか、それともキューブリックが「バリー」のラストに合わせられるものを探した結果が「シャイニング」だったのかどうかは不明である。が、もちろん私は後者であることを信じている。

そして「シャイニング」のラストはノスタルジックな音楽をバックにニコルソンの写真の上半身アップで終わり、「フルメタルジャケット」も音楽をバックに若者の上半身アップで始まっている。ニコルソンは髪を固めていて坊主頭にも見えるので「髪型」も韻になっていると思われる。最後に「フルメタルジャケット」のラストは、オレンジ色に燃える炎を背景に完全武装した兵士の行進で終わるが、「アイズ・ワイド・シャット」ではニコール・キッドマンがオレンジのカーテンにスタンドの光をバックにドレスを脱ぐという、いわば女性にとってのフルメタルジャケットを脱ぎ捨て裸になっている。つまりこれは「背景」の韻と「完全武装と武装解除」という「真逆」の韻と言えるだろう。余談だが、幻のデビュー作「恐怖と欲望」では、ラストシーンが森のショットで終っており、森の木の縦のラインが「非情の罠」のオープニングの駅構内に伸びた柱のラインに繋がっていたりするのである。

映画作りにおいて一本の映画の中で韻を踏むのは普通だが、それを全作品に渡って韻で繋いだのは彼だけではないだろうか?(私が知らないだけかもしれないが…)「だからどうした?」と言われればそれまでの話で、仮に映画に韻がなくても支障はないし、実際のところ、あったとしても言われなきゃ気づかない事の方が多いだろう。だが詩に韻が必要なように、全作品で韻にこだわったキューブリックは、映画監督であると同時に「詩人」だった、と言えるのではないだろうか。最初から最後まで、作家精神を貫き通したキューブリックに、映画作家としての矜持を垣間見た気がした。そんな彼の記念すべき出発点であるこの作品に、最大の賛辞を込めて最高点を捧げたいと思う。(2012.12.24)

(評価:★5)

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