[コメント] キートンの蒸気船(1928/米)
〈あらゆる映画作家の系図を遡ればルイ・リュミエールかジョルジュ・メリエスのいずれかの始祖に辿り着く〉というのは真偽判定に値する命題というより「思考の遊戯」とでも呼ぶべきものだが、キートンが映画史初期におけるリュミエール-メリエスの偉大な結節点であったことに異を挟む者は少ないだろう。
バスター・キートンのフィルモグラフィの中でもそれを最も強く感じさせるのがこの『キートンの蒸気船』であり、その登場が無声映画の最末期であったというのは示唆に富んでいる。また、あらゆる建築物を破壊し尽くさねば気が済まないキートンの凶暴な衝動はこの作品で最大値を示している。『キートンのセブン・チャンス』における花嫁集団の襲撃がキートン史上最悪の人災であるならば、これはキートン史上最悪の天災の映画だと云うこともできるが、人為のものではないがゆえに不可避であるその破壊は、事態そのものが常軌を逸しているからではなく、程度の甚だしさが現実らしさを著しく踏み外しているためにやはり不条理である。
ところで、とりわけこの稿に記すべき必然性があるわけでもないのだが、キートンの作品について語るにあたり、彼がほぼ一貫して「南部」の映画作家であったという視点も可能ではないかという提案をここで試みておきたい。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (1 人) | [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。