[コメント] ミツバチのささやき(1972/スペイン)
映画を見終った人むけのレビューです。
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姉妹の父親フェルナンドは、日誌の文中で、蜂の巣を時計に喩える。その彼の所有する、オルゴール付きの懐中時計。蜂の巣や時計は、彼が観察し、理解し、管理する小宇宙。この懐中時計が、娘アナを介して負傷兵の手に渡るという出来事は、その小宇宙に生じた綻びを感じさせる。妻テレサが密かに書いていた手紙の宛て先が、果たしてこの兵士だったかどうかは重要ではないだろう。妻子の心が<外>へと逃げ去ろうとしている、という、その事が物語の上での肝要な所なのであり、またフェルナンドにとって致命的な事柄なのだ。アナは、蜂の巣のような六角形をした格子の窓のある扉を開き、生と死の狭間としての精霊の世界へと、心の声で呼びかける。
学校の授業でアナは、ドン・ホセと名づけられている人体模型に臓器を一つ一つ貼りつけていく。これは勿論映画『フランケンシュタイン』の、人の手で組成された人体とのアナロジーを結んでいる訳だが、ここでアナが、ドン・ホセに足りない部位を訊かれて、それが「目」である事に気付かないのは示唆的ではないか。彼女は、目では見えないものを見、また、聴こうとする存在なのだ。
この映画では、列車、線路は、生と死の境界となっている。あの負傷兵は列車に乗って現れるし、テレサの寝顔を捉えた、小さな、美しい場面でも、遠く聞こえる列車の響きが、窓から挿し込む光の優しさと相俟って、密やかな息遣いを感じさせる。それに何よりも、アナが姉イサベルと、線路に耳をあて、列車の音を聞く場面。最初に耳をあてるのは姉だが、アナは列車が近づいているのに、姉がその名を叫ぶまで、線路に耳をあてたままでいる。フランケンシュタインは精霊だ、などと言っていたイサベルは、死が取り返しのつかないものである事を、本当は知っているのだ。
イサベルは、妹より先に精神的な階段を上がっていて、「現実」に足を着ける所まで来ているのだ。だがアナはまだそれ以前の段階にあり、精霊を求めるように、姉と見つけた小屋に、一人通い続ける。イサベルは、猫に引っ掻かれて指から流れた血で口紅をし、他の少女達と共に火、死の危険の上を軽やかに跳び越えていく。だがアナは、自分が匿っていた負傷兵の血を見つける。その血は、父フェルナンドにとっては、彼が躊躇なく踏み潰した毒キノコと同じように、忌むべき不吉な物でしかないのだろう。
この『ミツバチのささやき』の中で僕達は、『フランケンシュタイン』という映画に見入る観客の姿を見る。つまり、観る事を観る。僕らも、劇中の人々と同様に、幻影の構築物、映画という蜂の巣の中で戯れる一匹の蜂。この構造に加えて、全篇に横溢する、息つく暇もないほどの、映画的な豊饒さ。イメージの結晶体の内に観客を閉じ込めようとするこの映画には殆ど窒息感を覚えさせられ、途中で映画館の外の空気を吸いたくなりさえする。
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