[コメント] フランス軍中尉の女(1981/英)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
グローガン医師(レオ・マッカーン)と親交を結ぶチャールズが化石の研究家であるのは、彼が‘過去’に憑かれた男となることを暗示しているようにも思える。そして彼と互いに惹かれ合う女性サラ(メリル・ストリープ)は、彼女が他者から身を隠して自由と安らぎを味わう場所である、化石の眠る森でチャールズと再会することになるのだ。そしてこの森は、若い召使たちの逢引きの場ともなる。
この劇中映画(といっても作品の大半を占める)でのサラの美しさ。岬に立つ彼女の許へ、チャールズが嵐と大波の危険を警告する為に近づいた場面での、黒衣に身を包んだアンナの、フードから覗く顔。紅い巻き毛と、紅い唇が、その肌の冷たく青ざめた色を一層際立たせる。また、新たに秘書として勤めようと訪問した屋敷で面接を待つ彼女の背後の、ガラスの模様の紅い輝きと、彼女の髪。現代の女優アンナの軽快さと、実に対照的。髪形もサラのようにミステリアスな長い巻き毛ではなく、動きやすいショートカット。チャールズと、彼を演じるマイクが殆ど見分けがつかない顔であるのとは、人物造形の点で全く異なる扱いになっている。
チャールズがアーネスティナ(リンジー・バクスター)に結婚を申し込んだ場面の直後に、ベッドで彼が、時代設定にそぐわない受話器を取る様子を見せられた観客は、一瞬、混乱させられる。そして彼(=マイク)の傍らに別の女性が身を横たえている光景に、彼が不実な男のような印象を受けるのだ。勿論、これは、場面が現代に移っているのであり、横に居るのは彼が共演している女優のアンナ(メリル・ストリープ)。だが、一瞬彼が裏切りを犯しているように思えたのは、彼が演じているチャールズが、これから婚約者を裏切ることになる予兆のようにも感じられる。
しかし、恋人を翻弄し、嘘をつき、見捨てるようなことをするのはむしろ、チャールズの相手であるサラなのだ。彼女は初登場時に、棺桶の前で死人の顔をデッサンしている。これは、彼女が終盤に至るまでずっと黒い衣装を身に纏っている、つまり喪に服していることの理由となっているのだろうが、彼女が真に喪に服しているのは、自らの愛情に対してのように思える。自分の許に戻って来るとは信じていないフランス軍中尉を待ち、岬に立ち続けるサラ。
だがこの中尉とは、実は性的な関係は無かったのであり、サラは、中尉が宿から娼婦と共に出てくるのを見て、その場を去ったのだった。娼婦とは、一夜限りの存在、その身を貨幣と交換し、他の女(例えば妻。「当時のロンドンの男は週に二、三度娼婦と寝ていた」という台詞もある)の代わりのような存在。サラは自分がそうした交換可能な女として見られていたことに気づいて中尉を見限ったのだと言える。
この、代理の女としての娼婦、という在り様は、恐らく、サラを演じたアンナのような女優、或る役割を演じる女の在り様と、重ねられているのだろう。だが、サラが中尉との物語を虚構してチャールズを翻弄したように、アンナも、架空の物語を演じることを通して、チャールズ役の俳優マイクを魅惑していたと言える。
アンナの夫が、マイクに言う。「映画には二つの結末があるそうだね。幸せな結末と、哀しい結末。どちらの結末を迎えるんだ?」。ここでマイクが逆に問う「アンナに聞いていないのか?」という台詞は、まるで彼とアンナの不倫の結末について言っているように響く。チャールズとサラは、あたかもサラが立ち続けていた岬の向こうの海に漕ぎ出したかのように、二人でボートに乗って幸せな旅に出る。一方でマイクは、映画ではサラとチャールズが抱き合っていた部屋で、独り取り残されるのだ。
チャールズは、汽車の旅の途中で、偶然に通り掛かった、という形で自他を騙すようにして、サラの許に行く。その結果、二人は肉体関係を結ぶのだが(この場面でサラが初めて喪服を脱いでいるのが重要な点)、チャールズが婚約者アーネスティナに婚約解消を告げる為に一日サラの許を離れていた間に、サラは行方知れずになる。チャールズは紳士の称号を永遠に剥奪され、恥晒し者、つまはじき者として、かつてのサラのように忌むべき存在、人間以下の存在として、社会に居場所を失ってしまう。その意味では、愛の対象を失った上で(サラの場合はフランス軍中尉)絶対の孤独に置かれるという形で、サラと同化したのだとも言えるだろう。
このように、旅をする、場所を移る、という行為がそのまま、恋愛に於ける心変わりとイコールとなる。このことは、マイクとアンナが、共演するシーンをいったん撮り終えたことで離ればなれになり、これがアンナに、夫の許への帰還、マイクを棄てる行為へと至らせる、という筋書きに於いても貫かれている。劇中映画の中では汽車の汽笛がこの「旅=変心」の暗喩であったように思えるのだが、現代の場面では、アンナと夫が一緒に居る部屋の外から聞こえる船の汽笛が、それに該当しているのではないだろうか。
この、アンナと夫が一緒に居る場面は、マイクから電話がかかってきたのを夫が出てしまう、という形で表れるのだが、観客はここで、マイクが裏切られていたように感じる。だがすぐに、マイクの傍らにも妻が歩み寄って来、つまりはダブル不倫であったことが明らかになる。この辺の場面の見せ方は巧いのだが、不倫という要素は、アンナの心変わりという形でしか活かされておらず、もう一つくらい何か、主題的な奥を見せる展開があれば、とも思う。
所謂「劇中劇」であるフランス軍中尉の女の物語が大半を占め、むしろ、断片的にしか示されない現代の場面の方が劇中劇に見えるという倒錯性が、この作品の面白い所。実はジョン・ファウルズの原作は、サラやチャールズらの物語のみであり、映画の共演者同士の恋愛劇は、ハロルド・ピンターによる脚色によって加えられた要素であるらしい。この、ちょっとしたシークェンスの挿入が、原作に対する脚本家からの一解釈ともなっており、更には原作の物語そのものを、全く別の相貌へと変じさせる効果をも上げている。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (2 人) | [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。