[コメント] アリス(1988/チェコスロバキア)
映画を見終った人むけのレビューです。
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印象に残ったのは、主演のアリス役の女の子。正確な年齢は判らないが、「子供」が「女の子」になっていく頃合の年齢ではなかろうか。彼女も一応女の子は女の子らしいのだが、瞬間的に餓鬼のような乱暴さを発揮する。髪型、服装によって纏われた“女の子らしさ”と、その中で動いていく子供の動物的な肢体。髪型、服装は自然と細かな振舞にも“女の子らしさ”を強いることになるが、その中の子供は未だにその“らしさ”に馴らされてはおらず、興味や関心の赴くまま、自由気儘に即物的、動物的に動いていく。その“女の子らしさ”と即物的、動物的な子供のリアルな肢体が擦れ合うかのようなフリルのついたスカートの裾と幼いフトモモの交錯に、何故だか倒錯的なエロスを覚えてしまうのだった。
そんな彼女は映画の中で何度も小さな人形に化身することになる(つまり物語上では小さくなる)のだが、実際生身の彼女の肢体も人形のそれとほとんど変わりないからこそこの化身は象徴的なものとなる。つまり生身の彼女も、それは生きた人形なのだ。では人形とは何か。それは空洞だ。つまりそこにあるのは、人間的な実存など未だ形成していない、生ける空洞なのだ。生ける空洞は、しかし空洞であるが故に徒に停滞することなく世界を貪欲に呼吸する。新しい扉を開いてはまた開き、次へ次へと突き進む。突き進む彼女。生ける人形、生ける空洞。しかし彼女は一体何者なのか。
不思議なクッキーを口にすると、彼女は大きく化身する。大きな女。それはつまり小児にとっての母親のことではあるまいか。とすれば、映画に度毎に挿入される物語する少女のくちびる。それは母親のくちびるだろう。そのくちびるが語るように、この映画は「子供」の為のものであり、それを観る為には目を閉じなければならない。何故か。この映画の観客である私達は、「子供」に還る為に、「母親」の内なる暗闇に還る必要があるからだ。そこで展開されるこの映画、この夢は、だから母親の胎内に眠る赤子の夢なのだろう。
子供であり、女の子であり、母親でもある女。それは世のロリータ願望の男共が本質的に求めている本当のロリータ像ではあるまいか。とすればこれは、言ってみれば本当のロリータ映画、ということになる。
いわゆるロリコンはいわゆるマザコンと同質のものがあると思っていたが、やっぱりそのようだ。だが、ヤン・シュヴァンクマイエルの本能は、ただ「子供」達に母親の胎内に眠り込めとは諭さない。夢の中で迷走し続けるウサギの腹は常に不安定に苛立たしくもだらしなく切り開かれたままであり、夢の終わりに我らがロリータは皮膜を切り裂く大きな鋏を、その手に取って微笑むのだから。
(…なるほど、こういう映画だったのだ、これは。)
(…ほんとか?)
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