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[コメント] 第七の封印(1956/スウェーデン)

シリアスな映画だと思って観たら、意外とコメディー・タッチ。ただ、コメディーである事の恐ろしさというものがあって…、
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







この映画では、二つの集団的な死が描かれる。一つは、戦争。もう一つは、疫病。どちらも説教師によって、「神の意思」によって与えられる死だと説かれる。主人公の一人である、騎士アントニウスが従軍していた十字軍の遠征は、周知のように、キリスト教の信仰が大義名分として説かれていたし、劇中にも、アントニウスに説いて戦場に送り出した牧師が、その醜悪な姿を見せる。もう一方の疫病もまたキリスト教的立場から、堕落した人間に神が下した罰だと説かれている。ただ、疫病の方は、既にそこに迫ってきた死をどう受けとめるか、という受動的な態度なのだろうが、少なくともそれに比べれば、十字軍に旅立ったアントニウスには主体性が認められる。そしてそれ故に彼は、死神と対決する存在として、物語の軸となり得るのだろう。

この映画の中で特に印象的なのは、旅芸人一座が村人たちに芝居を見せる場面と、それに続くシークェンス。舞台で役者夫婦が奏でる滑稽な歌にのせて、蔭で展開する、座長と村の女との浮気。歌詞が詠う、動物たちの陽気な乱痴気騒ぎは、動物的に戯れる浮気者二人の露骨な情欲、照れ隠しのない自然さを、からかいながらも励ましているかのように聞こえる。ところが、そこに突如現れる、キリスト受難を擬した格好をした、陰気な連中。その中から一人の説教師が登場し、村人一人一人を指して、「山羊のような目のお前」、「豚のような顔のお前」と、動物的な在り方をしながら平気でいるお前たちは罪深い、だから神の罰が下り、疫病で皆死ぬのだ、と脅していく。神妙な表情になる村人たち。こうした対照的な場面があった後の、酒場での出来事は、一見何気ない場面だが、他のどの場面よりも、背筋が凍るような思いにさせられた。先の場面で歌っていた役者ヨフが、座長と浮気した女の旦那から疑惑を向けられ、更に、そこに居合わせた、アントニウスを十字軍に送った牧師が男に便乗し、焚き火を使って脅しながら(後の魔女裁判での火刑を連想させられる)ヨフに「踊れ」、「熊の真似をしろ」と命令して苛めるのだ。他の連中もそれを見て、一座の芝居を見ていたとき以上の嘲笑を送る。この光景の何が恐ろしいかと言うと、人が死の恐怖からどうやって目を逸らすか、という点にある。疫病で死ぬのは恐ろしい、神罰も恐ろしい、しかし自らを鞭打って神に許しを請うのも恐ろしい。しかしながら、神を恐れている彼らは、動物的な悦びと陽気さに徹する事も叶わない。するとどうするかといえば、目の前で、牧師にいたぶられている喜劇役者を嘲笑う事しか出来ないのだ。こうした、中途半端で無責任な人間というのが民衆の大多数であるわけで、そうした因習的な集団の在り方というものを、ベルイマンは突きたかったのではないか、と思う。

もう一つ、それと並んで印象的だったのは、魔女裁判にかけられ、処刑される寸前の娘に対し、騎士アントニウスが、確か悪魔の存在について問いかける場面。娘は、「それを知りたければ、私の瞳を覗いて」と言い、アントニウスは、その瞳の中に虚無しか見出さない。正直、台詞の内容はうろ覚えだけど、そんなような遣り取りがあった筈。この場面の後、映画も終幕に入ろうという頃、アントニウスが妻と再会する場面では、久方振りに逢った、疲れきった顔をした夫に対し、妻は次のような言葉をかける。「私には、貴方の顔や目の奥に、若い頃の貴方が見える」。悪魔の魅入られた娘の目の奥には何も無かったが、その事に失望したアントニウス自身の目の奥に、彼の妻は、生の輝きを見出した。この映画の最後では、旅芸人夫婦が幼い我が子と共に旅立つが(ヨフが幻影で見る、死神と共に旅立つ一行と対照的)、その彼らは、神の御名の為と称する戦いの中で生を見失っていったアントニウスが、ずっと帰るべきだった場所、温かな巣を表しているのだと思う。そこには死の暗闇は無く、それ故、不在の神に懇願する必要も無い。旅立つ前のアントニウスには、そんな場所が約束されていたのだ。そう言えば、座長に女房を連れて行かれてしまった男は、酒場で女房との生活を「地獄」だと言い、地獄の責め苦のようにして殺してやりたいと言いながらも、結局は女房を恋しがっていたではないか。多分、この映画の力点は、「神は存在するか、しないか」という二元論、果てしない謎への問いかけというよりもむしろ、そうした不毛な迷いや悩みを吹き飛ばす、愛や生の肯定なのだ。暗闇で神に祈っても、神は沈黙しているし、懺悔をしたところで、あの告解室の場面に象徴的に表されていたように、死神に人間の手の内を教えてしまう事にしかならないのだ。

アントニウスと、ヨフの妻ミアの会話から始まって、徐々に皆が集まり、野いちごを食べる、幸福な場面。その背後ではずっと、芝居での死神役の為の、ドクロの仮面が風に揺れている。こうした皮肉な調子が全篇を覆う。喜劇的な演出で扱われる死は却って、より寒々としたおぞましさを感じさせる。そして、軽いタッチでありながらもその背景にはやはり、重苦しく冷厳な、漆黒の闇が広げられているのだ。

(評価:★4)

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