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[コメント] 太陽がいっぱい(1960/仏=伊)

原作者・監督・俳優、それぞれが描いたトム・リプリー像は恐らくは全然異なるものだった。そしてその位相が、作品を単なるサスペンス以上のものに押し上げた。
町田

映画に限らず、小説でも漫画でも、登場人物の内面を深く掘り下げようとすればするほど、その思考・行動に法則性・一貫性が生まれ、良くも悪くも「解りやすい」人間像へと落ち着いてしまう。しかし、実際には人間の精神はもっと複雑で、総ての思考や行動に説明可能な動機・原因が備わっているわけではない。そもそも、たかだか二時間かそこいらで総ての説明がついてしまうような単純な人間などこの世に存在しないのだ。

だからリアリズムはそれを追求することによって、却ってリアルから遠ざかってしまう諸刃の剣とも云える。

しかしこの映画は、実に「自然」だ。スクリーン上で「揺れる」(↑コメント部の理由から)リプリー青年像を、我々は静止させて見ることが出来ない。彼が本質的にどういう人間で、どういう人生哲学の持ち主なのか、与えられた二時間では到底把握し得ないのだ。勿論、金持ちの親友に対する「愛憎」だとか「嫉妬」とか、或いは金や女への「執着」だとか、社会に対する「復讐」だとか、いやいや青年期特有の「刹那」的行動だとか、色々と推測することは可能で、そのどれもが当てはまるのだが、同時にどれもが当てはまらない。どれも当てはまらないのだ。結局、何も解らないのである。そして、そのことが俺にはとても「自然」に思えるのだ。彼はその行為を「ただ」行っただけなのだ。俺は、そうか、そういうことも在りえるだろうなと、納得するしかない。

センセーショナルな少年犯罪が起こると、新聞やワイドショーはこぞって「犯罪少年の心の闇」なんて題して、その心的要因を追究しはじめるが、そこから出た憶測や結論などは殆ど無意味で、真実とは何の関係もない。こじつけでも理由を付けなきゃ、被害者が浮かばれないし、興味本位の報道と批難を浴びてしまうから(実際はそうなのだが)、そうやっていい子ぶりっ子しているだけのことである。

この映画は40年も前の映画だが、偶然にしても、そういう馬鹿馬鹿しい過ちを完全に回避している。奇跡的な映画だとも云える。犯罪者は、世の教訓となる為に犯罪を犯しているわけではない。そして我々は、今後の訓戒とすべく犯罪報道や犯罪映画を見ているわけではない。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)けにろん[*]

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