[コメント] 簪(1941/日)
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簪を観た人の中に,口を尖らせて田中絹代のミスキャストを叩く人がいた。 その人は,「田中絹代の器量では,笠智衆の抱いていた情緒的イリュージョンがぶち壊れてしまうはずだ。そうでないとおかしい」と真剣な顔をして言うのだった。
確かに,田中絹代をとびきりの美人であると評価することは,その趣味を疑われるきっかけになりえるかもしれない。 しかし,よくよくあの顔を見た人は,その顔のかわいらしさに気付くだろうし,目を瞑ってあの声の響きに耳を澄ました人は,その声の美しさに心がざわめくのを感じるだろう。 また,田中絹代の美しさが描く放物線の頂点が『西鶴一代女』であったとしても,この簪での美しさも『西鶴一代女』での大輪を予感させるものではなかったか。
ウダウダ言ってもキリが無いので,ここではっきりと言ってしまうことにするが,田中絹代はとびきりの美人ではないかもしれないが,不美人ということは絶対にない。むしろ私の趣味には完全に合致する,とすら言ってしまいたい。がそこまで言うのはやめておこう。とにかく,田中絹代の登場で笠智衆の情緒的イリュージョンが壊れなかったとしても,私にとってそれは何ら驚くことではないのである。
ここまで私に言わせておいて,なお田中絹代のミスキャストを叩く人がいるのなら,その人はあのラストシーンを見逃してしまったのではないかと,大きなお世話だろうがそう心配してしまう。それは,一緒に過ごした人々が皆東京に戻り,もはや東京に居場所を無くした田中絹代が,一人雨の中傘を差して思い出の場所を歩く,あのラストシーンのことである。ここで田中絹代は,極度に演技を抑え,濃厚な寂寥感と閉塞感を漂わせており,この田中絹代の代わりを探すとすれば,それはかなり難しいのではないかと考えざるをえない演技であった。
このラストシーンでの演技もまた『西鶴一代女』を予感させるものがあった。
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