[コメント] 小人の饗宴(1971/独)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
すべての二項対立を破壊する小人の暴動。
この物語は、破壊が始まるまでの過程はなく、すでに破壊が始まったところから始まる。(「小人もまた、小さなことから始めた」Auch Zwerge haben klein angefangen)
1.まず、施設内は二重化されている。建物の中と外。
A)ぺぺと指導員がいる建物内。
ぺぺと指導員との対立は、感性と理性との対立。ぺぺは椅子に縛り付けられることによって能動性を欠き、また、人間理性の本質であるところの言葉を欠くがゆえに、彼は感性の象徴である。指導員は逆に理性として言葉を濫費する。しかし、彼の発する言葉に対してぺぺは嘲笑を浴びせる。その言葉が現実に対してなんの効力も発揮し得ないから。理性はそれだけでは現実に対して何も為し得ない。
したがってこの建物は、自我の象徴であり、建物の外は世界である。
B)暴動の起こっている外部。
そこには生と死が溢れている。屍肉を食らう鶏、棕櫚の倒木、結婚、壊れた車の修理とその破壊(註1)、死に至る巨大な雌ブタ、聖餐の崩壊、燃える花、磔刑にされる猿…。
2.小人たちによる破壊
しかし、彼らの行っている破壊は、単に生を死にいたらしめるという意味での破壊ではない。彼らの破壊は生と死の秩序、二項対立の破壊である。鶏は死肉を食らうことで生の活力を得る。殺されたブタには子豚がいた。車は壊れていたし、直したあとまたそれを壊した。生きるための食事は途中で放棄され、皿は車へと投げつけられる。花は燃えることによって死につつ咲き誇る。現実を原罪の償いと見なし、来世に救いを解くキリストを猿と嘲り、来世をも否定する。更に彼らに内在的な二項であった盲目の双子の対立もまた終結する。
そしてその破壊は建物内部の対立をも破壊しようとする。ぺぺの解放(感性の解放)。感性に対して常に上位を占めてきた理性(指導員)は、自らの地位が剥奪されることを恐れ、すなわち感性のもとに服従するくらいなら、感性そのものを亡き者にしようとする(ぺぺへの加害)。しかし、現実とのつながりを保つものである感性を失った理性は、自らの空想の内へ閉じ込められ、枯れ木が人間と見なすような幻覚、狂気へと陥る。
建物内の対立を破壊することは同時に、自我と世界との境界を消し去る。自己と世界の境界としての感性(ぺぺ)が破壊されることによって、また建物の扉が開かれることによって、自我と世界との、すなわち主観と客観の対立は破壊される。こうして、あらゆる対立は破壊される。
3.幼子=小人
「私はあなたがたに精神の三段の変化について語ろう。どのようにして精神が駱駝となるのか、駱駝が獅子となるのか、そして最後に獅子が幼子になるのか、ということを」(“ツァラトゥストラはかく語りき”、「三段の変化」)。
小人たちは物語が始まった段階ですでに獅子となっている。彼らは彼らに背負わされた重荷を取り除き自由を手にするために、獅子の力を持ってすべての重荷、すなわち既成概念としての二項対立を破壊する。そしてこの破壊は、自我と世界という、人間存在にとって根本的な対立を破壊することによって達成される。
こうして自由を獲得した彼らは、遊戯する幼子となる。彼らは「無垢であり忘却である。そして一つの始まりである」。そして、幼子となった小人の前に、すべてを肯定する笑いの前に、駱駝はひざまずく。ここから、この小さなことからすべては始まる。
(註1)回転し続ける車は、それ自身運動として生の象徴であるが、また、その周囲で戯れる小人たちを轢き殺すことも可能な危険を、すなわち死を孕んでいる。この回転運動はそれ故に、輪廻であり、同時に「永遠回帰」の象徴である。しかし、この回転運動もまた、最後にいたって破壊される。輪廻転生は、生死の対立概念の上に基づいているため、その対立が崩壊したときその存在価値はなくなる。一方で、ニーチェの言う永遠回帰は、同一のものが還ってきて繰り返されるという表面的な理解(「同一なるものの永遠回帰」)で回収しきれる概念ではない。ドゥルーズが指摘するように、それは生成の無垢へと向かう運動であり、その遠心力によって雑夾物が排除されていく過程でもある。したがって、対立概念がすべて破壊し尽くされたとき、回帰の回転運動もまた不要となり、ただ無垢なる生成が残るのである。
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