[コメント] A.I.(2001/米)
ヤン・ハーランはよほどキューブリックを信奉していたんだろう、この映画が最後だ、この映画がキューブリックの最後であることを強く意識していたように思われます。
全編を通じる淡々とした低い音量の音楽に魅力を感じますが、残念ながら耳障りな使い方、これはある意味でスピルバーグの特徴でもあるんですけどね。
スピルバーグにとっては挑戦だったんだろうと思います。しかし彼の良さはハイテクというSF映画のテクノロジー未来主義というか現実ではない遠い未来という点だけでしか表現されていなかった。彼は本当に子どもです。テディにしてもいかにも彼らしい発想。かくれんぼのエピソードも「あれっETかな」と思うくらい。所詮彼の世界観はここまで。
むしろキューブリックの恐怖を感じました。その芸術性。『時計じかけのオレンジ』であり『2001年宇宙の旅』であり『シャイニング』だった。この底冷えするような恐怖。デビッドが冒険に出て教授の部屋で沢山のデビッドに遭遇するシーンの恐怖。同じ顔をした同じロボットが並ぶこの恐怖。我々はロボットに感情移入している自分に気がつく。この恐ろしさ。人間とは何?というテーマ。素晴らしい。
きっとみんな気がついていることなのでしょうけど、これがキューブリックだったらこういう映画には絶対ならなかった。キューブリックの生きる目的はスピルバーグほど浅はかではないということ。もっと人間の深層心理にえぐりこむ恐怖を体現できたはずだ。
つまり”見せすぎる”ということ。科学技術の進歩に瀕死の子供が生き返ることで医療の進歩が平行して語られる、機械の子供が虐待される、そして捨てられ・・・というエピソードはドラマでしかない。映画は描き方だ。そこにテーマだとか何だとかはきっかけだけなのだ。これほどまで映画技術が進歩して、そしてこのような映画が表現媒体に乗る。キューブリックは題材としてこれを扱っただろうが、このような表現はしなかったはず。
スピルバーグはなかなか大人になれない。
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