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[コメント] 千と千尋の神隠し(2001/日)

 この作品は、子供の視点で描いたのではあるまい。  監督の「子供に見せたい」というコメントは、 「子供の視点で描いたからこそ」ではなくて…

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







‥ではなくて、「今の現実はこうですよ、この世界で貴方はどうしますか?」という問いかけであり、その回答を子供から聴くことによって、「現在の子供の内面」を測ろうとしたものだろう。子供に共通する世界認識とは言い難い。(もしかしたら。児童虐待が問題となっているような現代、実際に家出なんかしてはあまりに危険だ。実体験などせずに疑似体験で済ませた方が良いよという意味かもしれない。)

 この映画を見て、「これこそ子供の視点だ」と頷いた人は十二分に「大人」であると自分には思える。子供が「世界をどう歪んで見ているか」を自覚していたら気持ち悪い。大人から見て明らかに誤った解釈にも等しくリアリティを感じている。それが子供だろう。

■以下雑記■

 これは常々自分が思っている事なのだが、  「神隠し」とは、 超常現象的で強大な力によって、非力な子供が否応なく現実から連れ去られる …のではなく、  現実を見限った「子供自身の意志」によって「社会を捨てる事」だと考えている。

 しかし、子供でなくても社会を捨て生きる術などはない。多くの場合、回帰を余儀無くされる。それはある意味「挫折」でもある。

 それを「成長」として描く(解釈する)のは、「人間は集団で生活するものだ」と前提にしているからだ。でなければ、決してこの結論は導き出せまい(この作品を成長物語として理解できない者は、信条として「誰の力も借りない」、「人は所詮一人」等の個人主義を原則にしているのだろう)。

 成長物語としての異世界紀行  この比喩は、疑似体験によって生きるための術を模索し、結論を導き出すまでの過程である。そこで描かれる世界は非現実であるが、現実の縮図でもある。  もちろん未熟な経験に因む結論、万人に共通する真実ではない。間違う場合も多い。主観的縮図は他人とは交換不可能なるが故に、異世界に他ならない。

 「神隠し」を「神の仕業」と考えるのは、実は大人の側の論理。社会や親自身が、すべての責任を放棄し、すべてを「神」に責任転嫁しているにすぎない。  我が子の家出の原因を作っていたのが自分自身であったことに全く気づいていない。理由が付かないから「神の仕業」と結論付けるしか術がない。

 結論がデタラメで自分勝手な勇猛さを元に創られた幻想であっても。  結論に正当性が有ろうが無かろうが何であれ、我が子が社会復帰に至ることには無条件で賞賛し祝福してよいのだ。そう言ってしまっても良いのだ…と、自分などは思うのである。

■初感<010826>■

「秩序に逆らうな」

 強く感じたメッセージ。  もののけ姫では「混沌の中でもがけ」といったニュアンスが強かった。秩序など無いかのように。  この映画では、主人公に対し「自分には判らないけれど、すでにこの世界なりのルールがあって、それがどんな物か判らなくても、まず従え。反抗するな。」と言っているようだ。  従うべき所さえ従っていれば、その世界も窮屈でなく、ゆとりはあって、自分の居場所も必ず見出せるという展開。

■千尋■千を尋ねる…無限の探求…。「二兎追う者は一兎も得ず」ではないが、ネガティブにもなりえる意味を与えている。「千尋」が「千」になって「尋」を一度捨てた事によって、道が開けた。とも読める(そこでの「千」≒完結した「全世界」)。

 尋ねる=外交。これまで監督は、未知への探求を声高に叫ばれた。『風の谷のナウシカ』の腐海、『魔女の宅急便』の街、『もののけ姫』のタタラ場。外交重視から、内省の充実へ、180度の主張の転換をされた…と言えるかもしれない。

■ハク■実体はすでに団地と化している事が作中語られる。ならば、現世で会おうという約束の言葉は「団地の破壊」の暗示なのか(川の復活とはそういうことだ)。はたまた同じ名前の川が別の場所にできる可能性と取るべきか。どちらでも個人レベルの問題ではない。千尋も誰も、彼の復活に対し現実に何もできまい(団地の下で流れており死してないのかも)。

■カオナシ■最後、職を与えられたって事でしょうか。  人に受け入れられる術が「与えること」のみと考えているのが顔無。「行き方」を持っていない顔無は、見習うべき「手本」を探しているが「模倣」でもない「入替り」である。同時に相手の立場をも奪う(食う)。  私的には、顔無が「欲有る者」を食さぬ限り無害として描かれていてよかった。

■両親のコト■家でごろ寝な親父等を不快に思っている子どもは千尋と同じ。ブタになった両親を見ているのに等しい。  しかし、メディアによって、世間一般の父親、母親は、ダメ親父、ダメママにされてしまっている。自分の親を、それらに投影してしまっても、致し方ない。それは子どもの責任ではない。

 最後の台詞。「だめ、この中には居ないもん」

 単に意地悪問題っぽいエピソード。  これは今の比喩から、「世間に氾濫する堕落した親像」それと、自分自身の両親とを重ね合せなくなった。という意味になる。見分け、同一視しなくなった。そんな視点の芽生えと読み解ける。

 いたらない面があっても、貴方のために働いてくれてる両親だモノ…始めからブタであるはずは無い♪

(評価:★4)

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