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[コメント] ザ・ヤクザ(1974/米)

義理とは何か(という愚問)。〔3.5〕

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ある何気ない場面で、高倉健にアメリカ人の若造が問う。「ギリとは何か?」。それに対して曰く、義理は義理。そう答えるのが高倉健だ。いや、「○○は○○」などという反復すら必要もない、ただ「○○です」と、即ちただ「義理です」と静かに一言で答えるのが、高倉健だ。全く細かいことだが、このほんのちょっとしたやりとりを見るだけでも、この映画のヤクザ文化(?)を通した日本文化へのリスペクトの質の高さ、本気度が感じられて、非常に嬉しくなるのが正直なところだ。そう、それは言葉で伝える、あるいは伝わることなどではないのだ。ではそれは如何にして伝える、あるいは伝わることなのか。それもまた言葉にすれば陳腐なことになってはしまうが、即ち、共に生きることによって。そう、それだけなのだ。何しろそれは、のっぴきならない、人の生き様そのものなのであるから…。映画を見終われば、まさにそのように感得させられてしまうような本気度、それがこの映画を支配している。

ともあれ、そこまで脚本家のポール・シュレイダーらが考えていたかどうかは判らない。しかしそれにしてもこの映画の高倉健は、その様に立派に日本文化のある種の象徴としてのヤクザ文化(?)を見事に体現していた。たとえばそれは先述のやりとりの他にも、つまらない場面ではあるが、トイレの中でゴロツキども相手に、ロバート・ミッチャムのことを「(彼は)身内だ」と答えるところにも見て取れる。そこで高倉健は、ゴロツキどもの問いに対して、二度、念を押すようにして「(彼は)身内だ」という言葉を繰り返す。余計な修飾のない断言。その場面の高倉健は、その断言だけでゴロツキどもを黙らせて、そしてその場から姿を消すのだが、これが出来るのは、恐らく日本でも当時の高倉健しかいないと思うのだ。それは本当に、なんとも曰く言い難い存在そのものが発する説得力であって、単なる威圧感や恐怖感とも違う。こちら側からあちら側へ、その向こうにあるもの(心?)を想いやって、それ以上は踏み込んではならないと思わせるような、"何か"を感じさせてしまう、そういう存在感だ。この映画は、その様な意味で(当然だと言われるだろうが)、ロバート・ミッチャムはともかく高倉健に関して言えばまさに彼ありきの映画であって、彼なくしてはその成功はなかったものと思われる。

そして、その高倉健が立ち回るクライマックスの殺陣のシーンは、冒頭のタイトルで任侠道と武士道を重ね合わせて語るこの映画らしく、如何にも真実らしい、しかし凄味のある演出で、血と肉の感触が想起されるような出色のシーンとなっている。ジッと睨み合う時間の長い斬り合いの最中(実際の斬り合いも現実は睨み合う時間が非常に長いものらしい)、いざ切り結ぶ瞬間には素早いカットバックで状況の中で意識が迸る様を表現する。そしてそれが汗の滲む肌あいのうえで演じられれば、血の通った五体でその場に動き回るその感覚そのものが画面のうえに滲み出す。とにかく、そこには日本刀に象徴された武士道の流れを汲む(とされる)任侠道の理想的な姿が、高倉健の存在そのものを通して炸裂しているのであって、それをキャメラのこちら側で高倉健の存在に見出そうとしている異邦人の真摯な視線が想起されて、非常に嬉しく愉しく思わされるのだ。そういう映画であるから、多少蛇足とも思われそうな最後の指詰めのシーンも、やはりなくてはならない通過儀礼だったのではないかとも思われる。あのロバート・ミッチャムの無理をした苦悶の表情。あの本気度具合が、そのままこの映画の本気度具合であって、その真摯な視線がやはり好ましく思われるのだった。

異邦人。そう、これは異邦人の映画でもある。ロバート・ミッチャムの存在は、確かに高倉健に比すれば主眼には置かれていないが、しかし異郷の朋友を本当に理解しようとする真摯さを、この映画のロバート・ミッチャムはもっていた。そしてそれは、言語化された意識を通して理解しようとして理解されるのではなく、ただ単純に言語化もされないそれ以前の"行為"によって、代償行為によって贖われることになる。ロバート・ミッチャムに指詰めさせるのは、ある意味ではあざとい展開なので、蛇足と言えなくもないが、しかしそこでのロバート・ミッチャムの苦悶の表情は、その痛みを通してしか通じ合えないある種の「心」を、瞬間垣間見せていたようにも思うのだ。それこそが「義理」と言うのならまさにそうなのだが、しかしその時、そこでは既に義理という言葉(意識)自体は必要とされてはいない。その時、ロバート・ミッチャムは、既にそれを生きているからだ。異邦人が異邦人のある種の傲慢さや浮薄さを伴わず、真摯にある文化を了解するその過程を描いた映画としても、これは出色の映画だったのではないか。そんな気もする。

ところで、健さんの英語もまた、なかなか流暢で、恥ずかしくないレベルだったのが嬉しかった。鍛えられた肉体もそう。日本の代表として、気合いが入っていたのかも知れない。それと、何気に印象的なのは、ロバート・ミッチャムが岸恵子の経営するバーに赴くくだり。日本の無秩序で猥雑な筈の繁華街の風景が、異邦人の視点の故か、ある種の統一されたマダラ模様の美しさを構成していて、この映画が異邦人の撮った日本の映画であることを思い起こさせた。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)たわば sawa:38[*]

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