[コメント] 「女の小箱」より 夫が見た(1964/日)
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ゼロに回帰する物語である。石塚興業側の人物すなわち田宮と岸田、それに秘書の江波杏子は死亡し、その江波殺しの罪で千波丈太郎は逮捕される。全滅である。一方で若尾には何ら身体的・社会的損害はなく、夫の川崎敬三は復職し、勤務先の敷島化工は自社株をすべて買い戻す。要するに若尾が田宮らと何の接点も持たなかった時代=ゼロ地点まで引き戻されたところで物語は幕を下ろす。「表面上」において物語は終了時と開始時が等号で結ばれる。若尾が望みさえすれば以前と同じ生活を送ることもできるだろう。しかし彼女が川崎と復縁することはおそらくない。一枚「表面」を剥ぎさえすれば、冒頭部と結末部の若尾が決定的に変質していることは明らかである。表面上の不変性が逆説的に若尾の変化をより深くフィルムに刻み込む。したがって、これは演出家の演出力よりも、第一には脚本家の(あるいは、原作者の?)構成力の賜物である。増村保造はこの「よくできた」物語に逆らうような過剰を盛り込むことはしない。職人的な態度で物語に奉仕する。しかし、それもやはり一種の過剰としてある。まず若尾・田宮・岸田への演技演出がそうであるし、スコープ画面の半分を黒で覆ったり、物語と無関係の人物やモノを前景に大きく写し込む(むろんピントは外してある)などの息苦しさを与える画面造型もまたそうだろう。映画において「息詰まるサスペンス」は決して物語や演技だけでは成立しない。
あるいは「二者択一」の物語と云おうか。若尾にとっては「川崎か田宮か」。田宮にとっては「夢か若尾か」、また岸田に刺されてからは「若尾か死か」。岸田にとっては「肉体の純潔を守ることか田宮への愛のために体を売ることか」、そして田宮が株を売却して後は「金か田宮か」。川崎にとっては「株か若尾か」。しかしながら、彼らに迫られた二者択一は、彼らにとって必ずしも難しい選択であるとは限らない。たとえば、川崎が株と若尾の間で揺れ動いて「両方ほしい」とか何とか駄々を抜かす一方で(しかしそれにしても、いささか戯画的ではありますが、川崎は川崎で見事に一貫した造型です)、岸田にとって田宮よりも金を選ぶことはありえない。種々の二者択一が横溢する物語を展開するうちで、それら二者択一の難易度も様々に設定される。その難易度が作中人物の感情の強度(想いの丈)を表現する(もっとも、映画の構造よりもキャラクタの心理を重視する限り、これは逆に云うべきでしょう。すなわち「その人物の感情の強度が強い/弱いから、二者択一も易しい/難しい」と)。
もしくは「裸体」の映画とでも云ってみるか。映画は若尾の裸体に始まり、田宮の裸体で終わる。若尾の決定的な心変わりの契機は川崎の裸体(浮気現場)を目撃することによってもたらされるだろう。
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