[コメント] ノー・マンズ・ランド(2001/伊=英=ベルギー=仏=スロベニア)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
本作には、一見希望と呼べるものは何もないように思える。我々は「お前が先に戦争を始めたんだ!!」「いや違う、お前達が先だ!!」と罵りあうチキとニノの姿を見て、個人と個人の生死の問題の前では「どっちが先に戦争を仕掛けたか」ということが如何に無意味であるかを考えなければならない。
この映画においては、二人の対立を煽っているのは一見チキである(なんとか社会的な関係を築こうとするニノを拒絶する)ようにも思えるかもしれないが、僕はそうは思わない。というより、そんなことはここでは問題ではない。それは単に、戦場にどれだけ長く身を置いたかの違いに過ぎない。ましてや、チキはこの日の朝に友軍を機銃掃射と砲撃で皆殺しにされているのだ。
『ユーゴスラヴィア』という一つの国家が存在していた時代には、民族が違ってもお互いがお互いを兄弟と認めあっていたのが、このような憎しみを感じさせるのに至った原因はなんなのか。
そして、この問題を単なる関係当事者間の問題では済まされないとして、多国籍軍による介入を行った国連(UNPOFOR:国連保護軍)が、国連のPKOの多国籍性の原則が故に、意思決定の遅さ、無責任体制を招き、結果的にセルビア・ボスニアの両者を救えないこと(UNPROFORは国連PKOの中でも多くの犠牲者を出し、かつ有効な成果を出せなかった活動として多くの教訓が導き出されている)。
ここで描かれている問題は、今も全く解決されていない。1995年の『デイトン合意』により、ボスニア・ヘルツェゴビナは主にムスリム(現在は自らを「ボスニア人」と称しており、「ボスニア語」を話す。)、クロアチア人から成る『ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦』と、セルビア人の『スルプスカ共和国』(「スルプスカ」というのは「セルビアの」という意味)に事実上分割された形で、対外的な外交のみをボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府が代表し、内政はそれぞれの自治政府が行うこととなった。しかし、彼らは今もなおお互いに憎しみあい、嘲りあっている(数年前までお互い殺しあっていたのだから当然だ)。ボスニア・ヘルツェゴビナははっきり言って国家として機能していない。財政だって、海外からの援助でようやく食いつないでいる状態だ。その支援ももうそろそろ終わる時期がきている。電気や水道などのインフラも、満足に機能している地域はほとんどないだろう。
その一方で、新ユーゴ(セルビアとモンテネグロの連邦政府)はコソボにおけるアルバニア系住民の排斥を国際的に非難され、NATOによる空爆を受けるなどしている。
旧ユーゴの問題をこの場で語り尽くすことは当然できないが、正義とは何か?平和とはどうやって実現されるのか?対立の原因はどうすれば解消することができるのか?という問題に対して、我々はどのように対峙すべきか。我々には、UNPROFORの体たらくを笑うこともできないし、極限状態において人の生死を報道という形で売りさばくメディアを非難する資格もない。ただ、理性的に考え、理性的に彼らを助けることができる立場にいることを幸運に思わなければならない。
だからこそ、我々自身も希望を持ってこの世界を生きていかなければならないのだ。映画の結末自体が絶望的であったとしても、この映画を描くという行為そのものを通じて、彼らも希望を持っているのだから。
(2002.5.7)
追記:話がそれっぱなしの形で終わってしまっているので一言。チキのTシャツがストーンズなのは、やっぱりアメリカなわけですよね。イギリス人、フランス人、ドイツ人がそれぞれ象徴的に登場しているのに対して、アメリカ人はCNNの女性記者に加え、Tシャツでも登場。素晴らしい(…余計話がそれてしまった)。
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