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[コメント] サイン(2002/米)

「神」への、「物語」への、「家族」への信頼。即ち、この世界に約束された調和への信仰。それを得るためのサイン。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







本作のタイトル・バックがあからさまに一昔前のSFホラーを意識した擬古典的なルックにされていることや、他のシャマラン作品の印象から分かるのは、彼が、いつの間にか賞味期限切れと見なされてしまった「ベタな物語」を、リアルな等身大の物語として再び信じ、語りなおすために映画を作っている、ということだ。彼の作品に共通しているのは、この「信じる」ということと、誰かに対する「守りたい」という思いだ。僕もさすがに『レディ・イン・ザ・ウォーター』ではノれなかったのだけど、基本的にシャマランの純粋さには素直に感動させられる。

ベビーモニターから宇宙人の会話が聞こえてきたり、宇宙人がすぐそこまで迫ってきている場面で、グレアム(メル・ギブソン)が子供に、生まれた時の様子を語って聞かせること、或いは、宇宙人襲来に備える行動が、「家の窓やドアをふさぐ」というものであること、家から避難するかどうかを家族で投票にかけた結果、子供たちの母の思い出が残る家に籠城することになる展開など、宇宙人との闘いは常に、卑近なかたちでの「家族を守る」こととして描かれている。

カントは『判断力批判』の中で「崇高」について、自然の圧倒的な脅威を例にとり、「だが我々が安全な場所に居さえするなら、その眺めが恐るべきものであればあるほどに、その光景は我々を惹きつけるだろう」、そしてそれが「崇高」であると述べている。この映画に登場する、人知を超えた脅威としての宇宙人は、やはり人知を超えた存在である神のサインの崇高さを際立たせている。

ただ、本作での神は、ただひたすらに超越的な存在という印象とは少しく違う。薬局のバイト娘が世界の破滅に脅え、元神父のグレアムに懺悔を頼むシーンや、人々が教会や寺院に押しかけていることを伝えるテレビのニュースなど、専ら、人が救いと安らぎを求める対象として、つまり「家族」というテーマの同一線上に「神」が描かれている。グレアムが神父であるのも、皆に「Father」と呼ばせるための設定だったのかもしれない。最終的に彼は、一介の「父親」として家族を守ると同時に、聖職への復帰をも果たすことになる。(*字幕ではグレアムが「牧師」と呼ばれていたが、ネットで閲覧できる英語脚本にも「Father」と書かれてある。牧師なら「Pastor」だが…)

人々が教会や寺院に、というニュースを、凍りついた表情で見つめていたグレアムは、窓やドアに木の板を打ち付ける作業に戻ろうと促すが、これは、人々のように神に救いを求めるのを拒み、弟・メリル(ホアキン・フェニックス)に語ったように、「信じられるのは自分だけだ」という信念を保とうとする姿勢の表れなのだ。その一方、家族と食卓を囲むながらも、神に祈るのを拒み、一人で食事を楽しもうとして果たせず泣き崩れたグレアムは、家族と肩を抱き寄せ合う。ここでは、神への拒絶は家族への拒絶と同列として描かれている。子供が泣くのを無視しようとして自分も泣いてしまったグレアムは、既にこの時点で神への帰還の一歩をしるしていたと言える。

窓やドアに木の板を打ち付ける、という、まるで台風を迎える準備のような日常性溢れる防衛策は、宇宙人という未知の脅威から家庭を守るために人が為しえることの小ささを感じさせる。このささやかな、だが真剣な防御壁を突破して迫る宇宙人を結果的に撃退する手段もまた、「コップの水をかける」という拍子抜けするものなのだが、今にも息子・モーガン(ローリー・カルキン)が浚われるなり殺されるなりしかねない、下手に身じろぎさえできない緊迫した状況で、奇跡的にその部屋に、水の入ったコップが幾つも置かれ、すぐに手の届く位置に、バットが壁に飾られているということ。この、何も突飛な条件ではないが、そのタイミングでその位置にそれらがあるという組み合わせは、確かに奇跡的なものであり、また非日常的な条件ではないだけに、「サイン」に気づくか否かに全てがかかる状況でもある。

宇宙人はバットで倒されはするが、水を浴びて死ぬシーンでは、床に折れたバットが転がっているカットが挿まれている。つまり物理的な衝撃だけでは致命的なダメージを負わせることは出来ないということだろう。このシーンの前に、テレビで「中東で原始的な方法による撃退法が見つかったとのことですが、詳細は不明です」という報道があったことで、グレアムらによる宇宙人退治が、そのまま世界の救済を意味することにもなる。

一見すると、決して良いことには見えないことが、ラストの奇跡を用意する。娘・ボー(アビゲイル・ブレスリン)が、コップの水を「埃が入ってる」「髪の毛が入ってる」「モーガンが口にしたからばい菌が入ってる」と頻繁に拒み、家のあちこちに水の入ったコップを置きっぱなしにしていること。モーガンが喘息持ちであること。また、宇宙人の登場シーンで、その場にバットが壁に置かれてあるのは、メリルが、記録保持者でありながら、監督の言うことを聞かない性格のせいで引退の憂き目に遭っているためだ。記録を出していなければわざわざバットをプレート付きで壁に飾らないし、現役であればやはりバットは飾り物になどされていないはずなのだ。

グレアムの妻を居眠り運転で死なせてしまったレイ(M・ナイト・シャマラン)が食料庫に閉じ込めていた宇宙人が、最後にグレアムの息子に襲いかかる展開は、妻の遺言が「サイン」となって救われる結末や、「奴らは水が苦手なはずだ」と言っていたのが他ならぬレイであったことなど、最大の不幸の元が、最後の救済をもたらしもするという点でこれもまた、不幸が転じて幸運をもたらすというテーマに沿うものだ。だから、「奴らは水が苦手なはずだから湖に逃げる」と言って去っていったレイに「じゃああんたが水をぶっかけてやっつけとけば良かったのに…」などと突っ込んではいけない。レイもホントに水で死ぬのか不安だったのかもしれないし。

レイは、事故を起こしたのも、その時たまたま僅かな時間に居眠りをしてしまい、そこに彼女が通ってしまったからで、自分は居眠り運転もしたことは無かった、と不運な偶然を呪う台詞を吐くが、これは「奇跡的な組み合わせ」の裏面でもある。監督・脚本家は映画に於ける神のような存在で、登場人物の身に起こる不幸も、物語全体の中での然るべき意味があるからこそ敢えて描くこともある。これは「神」が「世界」に対して占める位置とのアナロジーがある。そう考えればシャマラン自ら目立つ役回りを演じているのも納得が出来る。

不幸は、そのものとしては災いをもたらす偶然に過ぎないが、何かを信じて「サイン」を読もうとする姿勢によって、思いがけない意味が見出されることがある――。この作品が提起するのは、個々の出来事の幸不幸を越えたひとつの倫理的態度なのだろう。「見て(see)」という妻の遺言、まず見るということが出来ていなければ、正しい判断など出来るはずがないという倫理。これは非常に映画的な倫理と言うべきだろう。

面白いのは、宇宙人が「見えざる存在」であること。UFOが浮かんでいた空間に、何も見えなくなったのに鳥がぶつかるように落下して、骨が折れていたというニュース。宇宙人自身が、皮膚の色を変化させてカメレオンのように風景に溶け込んでしまう特性(服も着ないで侵略してきた理由はこれで説明できる)。また、ドアの下からナイフを挿し込み、鏡代わりにして宇宙人の姿を覗こうとするシーンや、大人の背丈を越える草が広がるトウモロコシ畑でのサスペンス等、見えそうで見えないことによる緊迫感の演出も秀逸だ。

「見えざる存在」といえば、神もまたそうだ。宇宙船を誘導するサインとしてのミステリー・サークルの登場も、上空からの俯瞰視点、神の視点の演出と見ることも出来る。「見る」ことによって、「見えざる存在」への直感に達すること。妻が遺言を残すシーンでも、彼女は目が見えなくなり、自分が話しているのがグレアムであることにも気づいていない様子だった。

神の視点といえばヒッチコックの『』を連想する方も居られるはずだが、実際、本作での家での籠城シーンは、姿の見えない脅威を音で演出する手法など、あきらかに『鳥』へのオマージュだ。尤も本作では鳥は、宇宙人に負ける存在として扱われているのだが。

ただ一点、個人的にどうしても不満が残るのは、本物のそれと比べてミステリー・サークルが美しくないこと。視覚的な楽しみの乏しさもさることながら、あんなに手作り感のあるサークルでは、宇宙人や、それとの対比としての神の超越的な存在感を感じ難く、演出上も詰めが甘い。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)レディ・スターダスト 3819695[*]

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