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[コメント] ザ・ロイヤル・テネンバウムズ(2001/米)

逆説的だが、父親の家族を再生させようという試みが実は当の家族の解体につながり、そして解体することが再生につながったのではないかと。
蒼井ゆう21

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







その人らしさとか、性格というのは、何らかのねじれや歪みのことだと思う。だからそのねじれや歪みなしにその人らしさとか、性格とか、は存在し得ないと思う。つまり、その「ねじれ」こそが今の自らを作りだしているのものであり、たとえばその「ねじれ」や、その「ねじれ」を作り出した人が嫌いで、「ねじれ」を変えようとがんばる、という行為自体も、実はその「ねじれ」を前提にして行われているのではないかと。そして、その「ねじれ」を直そうとすればするほど、その「ねじれ」を気にしてしまう、いやむしろ、そのねじれを直したりなくしたりしようとする行為そのものが当のねじれを再産出してしまうのではないか、とそういうパラドクスのようなことがあるのではないだろうかと思う。

この映画の父親がいわばその「ねじれ」を加えた人としてあり、そのねじれを加えられた家族の人たちは、それぞれ何らかの形で不適応をおこしているように思え、その原因のひとつが、そのねじれを加えた父親にあるのではないだろうか、と思えてくる(またねじれを加える、という行為はただ放ったらかしにしておく、ということにも当てはまる)。そして、家族の人たちは、その「ねじれ」を加えたものに反発したり、逃れでようとしたりするが、そのようなことそのものが結局は初めのねじれを前提にして行われるのであり、そのような意味でその「ねじれ」から根本的に逃れることはできない。そしてむしろ距離をとったり、反発していたりするからこそ、まますますその距離をとる対象、反発する対象にとらわれている、とらわれてしまう、ということがあるのではないか。

そして逆説的だが、父親が家族を再生しようしてがんばろうとし、最後父親と家族の人たちの関係性が修復されたように思えた時に、テネンバウムの人たちは初めていままでとらわれていたものから解放されることができたのではないだろうか。つまり、あの父親の行為は、家族を再生することを通して、家族の人たちを家族から解放し、家族を解体させたのではないかと思えるのだ。そしてそのことが同時に新たな家族の関係の構築につながっていくように見えた。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)DSCH[*] Orpheus 狸の尻尾[*]

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