[コメント] ザ・ロイヤル・テネンバウムズ(2001/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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その人らしさとか、性格というのは、何らかのねじれや歪みのことだと思う。だからそのねじれや歪みなしにその人らしさとか、性格とか、は存在し得ないと思う。つまり、その「ねじれ」こそが今の自らを作りだしているのものであり、たとえばその「ねじれ」や、その「ねじれ」を作り出した人が嫌いで、「ねじれ」を変えようとがんばる、という行為自体も、実はその「ねじれ」を前提にして行われているのではないかと。そして、その「ねじれ」を直そうとすればするほど、その「ねじれ」を気にしてしまう、いやむしろ、そのねじれを直したりなくしたりしようとする行為そのものが当のねじれを再産出してしまうのではないか、とそういうパラドクスのようなことがあるのではないだろうかと思う。
この映画の父親がいわばその「ねじれ」を加えた人としてあり、そのねじれを加えられた家族の人たちは、それぞれ何らかの形で不適応をおこしているように思え、その原因のひとつが、そのねじれを加えた父親にあるのではないだろうか、と思えてくる(またねじれを加える、という行為はただ放ったらかしにしておく、ということにも当てはまる)。そして、家族の人たちは、その「ねじれ」を加えたものに反発したり、逃れでようとしたりするが、そのようなことそのものが結局は初めのねじれを前提にして行われるのであり、そのような意味でその「ねじれ」から根本的に逃れることはできない。そしてむしろ距離をとったり、反発していたりするからこそ、まますますその距離をとる対象、反発する対象にとらわれている、とらわれてしまう、ということがあるのではないか。
そして逆説的だが、父親が家族を再生しようしてがんばろうとし、最後父親と家族の人たちの関係性が修復されたように思えた時に、テネンバウムの人たちは初めていままでとらわれていたものから解放されることができたのではないだろうか。つまり、あの父親の行為は、家族を再生することを通して、家族の人たちを家族から解放し、家族を解体させたのではないかと思えるのだ。そしてそのことが同時に新たな家族の関係の構築につながっていくように見えた。
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