[コメント] デカローグ(1988/ポーランド)
映画を見終った人むけのレビューです。
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謎の青年は全10話のうち、第七話と第十話を除く8話に登場する。『ベルリン・天使の詩』のように、他の人からは青年の姿を確認できないのかと思ったが、第六話で主人公と衝突しているところを見ると実体がないわけではないようだ。とはいえ、青年は話の筋に直接介入することはない。ただ見守るだけ。ありきたりな言い方かもしれないが、青年こそがこのバラバラの各話を結びつける視点なのだろう。しかし、その視点を読み解くことは極めて難しい作業だ。
第一話「ある運命に関する物語」: すべては計算可能と過信する驕りへの戒め。しかし、本話での「運命」はまったくのランダムではなく、人智を超えた部分での「計算」によって与えられているようにも映る。
第二話「ある選択に関する物語」: どちらかを生かしどちらかを殺すという二者択一ではなく、両者とも生かすという回答。業を背負うのは、選択をされた両者ではなく、選択をする側であったはずの女性。
第三話「あるクリスマス・イヴに関する物語」: 虚構の家族の先に見えたものは、家族への幻想。
第四話「ある父と娘に関する物語」: 「男」としての父が、「親」としての父を超えられない。そのため「親」であることを必死で打ち消し、「男」として見ようとする娘。しかし、実の父親であろうが育ての父親であろうが、「親」であることと「男」であることとは、父親の中に同時に体現されていて切り離すことはできない。
第五話「ある殺人に関する物語」→『殺人に関する短いフィルム』にて
第六話「ある愛に関する物語」→『愛に関する短いフィルム』にて
第七話「ある告白に関する物語」: 親からも娘からも旅立っていく若き女性。やりきれない結び方ではあるが、彼女の人生はようやくスタートしたと感じさせるだけの力があの眼にはあった。
第八話「ある過去に関する物語」: 過去は、繰り返すことができず、ただ「語られる」ことでしか表出しえない(第二話も既に「語られる」対象になっている)。ここで語られた過去を追体験することはできず、大学教授が語ることはどこまで実際の過去を反映していたのかもわからない。ただ、今ここで二人の女性が対峙し、対話するその重み。
第九話「ある孤独に関する物語」: 肉体の交わりと精神の交わりはどちらがどちらと切り分けられるものではなく、お互いが複雑に絡み合って構成されている。妻が自分と精神的な交わりを保ちながら、若者と肉体的な交わりを持つことを、夫は認められない。やがて妻もそのことに気づく。だとするなら、この夫婦は今後いかなる関係を結んでいけばよいのか。『奇跡の海』なども思い出す。
第十話「ある希望に関する物語」: 重苦しい話が続いたなか、ようやく軽やかな旋律が流れる。失った後にもう一度スタートすることこそが、「希望」なのかもしれない。ならば本話に限らず、他の話も希望についての話であったとも読める。
クシシュトフ・キェシロフスキが今でも生きていたら、どんな「希望」や「運命」を観ることができたのか、悔やまれてならない。しかし、語られた「過去」の作品を、生きている私が今感じ考えることは、現在進行形で生じている作品との対話である。映画を観ることの意義をここに求めたい。(★3.5)
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