[コメント] 乾いた花(1964/日)
時代の重さを背負った池部良は堵場が象徴する前近代的世界から抜け出せず、開通したての首都高をオープンカーで疾走する加賀まりこはその様式の中に散ろうとする。二つの虚無が時代を挟んですれ違い、モノクロームの世界に一瞬静かな炎が見える。
と、言うことになるのでしょうが・・・・。
篠田正浩には、スタイルの模索を感じることはあっても表現に対する意思を感じたことがない。どの作品も、どう映画を見せるかとう方法論が先に立ってしまい、何を映画に託したいのかが見えてこない。『渇いた花』は、そのスタイルから入ってしまう篠田の癖が好を相して外見上見事な虚無感をかもし出してしまっただけに見える。この映画は偶然に出来上がってしまった表現物であり、やはりそこには強固な意思もオリジナリティーも存在しない。
中期の篠田映画を何作か観た後に、初期のこの作品を観てそれを確信してしっまた。以来、私の中で大島渚、今村昌平、神代辰巳といった同時代者達と篠田正浩との作家としての評価の差になった。
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