[コメント] 恋人たちは濡れた(1973/日)
走る自転車の車輪のカットから始まる。乗っているのは大江徹。荷台にフィルム缶を積んでいる。海辺。海岸の道。自転車が横転して転がるフィルム缶。回転運動の連打。道に尾を引くようにフィルムが繰り出される。
映画館の切符売り場には絵沢萠子。絵沢はなぜか、全編に亘って、切羽詰まった口調なのだ。これはいい。絵沢には、まるで『乱れる』のエンディングのような、着物姿で道を駈ける見せ場がある。こゝでは、絵沢から白い自動車、その前の自転車に乗る大江と、三者をパンニングでワンカットに収める見事な撮影もある。
海辺の葦の原では、男女がセックスをしている。中川梨絵と堀弘一。大江が見る。窃視というよりは、堂々と見る。この後、大江と薊千露も監視されながらの行為、ということを繰り返す。薊千露のからみは2回あるが、2回とも可哀そうだ。1回目はレイプ未遂。枯葉まみれになり、殴りつけられる。2回目は浜辺、波に濡れながら、砂まみれになっての奮闘だ。
ほとんど意味不明な不条理劇で、理屈の無さが面白さに直結する。砂浜の斜面で馬飛びを繰り返していても、当然ながら、中川梨絵は意味なく脱ぎ始め、全裸になる。こゝは、フィルムの局所の部分を傷つけて、白抜きにして隠している。中川が傷つけられたような痛々しい感覚になる。
エンディングの、自転車に乗ったまゝ、大江を荷台に乗せたまゝの入水に唖然。これは今見てもカッコいい。全編アフレコ演出による、人物の運動の自由さが溢れている。それはまた、全編に亘る自由闊達な姫田真佐久の撮影あってこそだろう。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (1 人) | [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。