[コメント] 黄泉がえり(2002/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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「黄泉がえり」の人たちが、生きている人たちの思念から作りだされた幻想に過ぎないというのなら構わないのだが、そうではなく生きていた時と同じ意識をちゃんと持っているというのがひっかかる。生きている人にしてみれば、死んでしまった大切な人が帰ってきてくれれば嬉しいだろう。でもどんなに無念の思いを残して死んでも、自分を思ってくれる人がいなけりゃ蘇えられない。不公平だ。独立した人格をもつ存在が、一方の側に生き死にの鍵を握られているという設定はいい気持ちがしない。なんだか「黄泉がえり」は生きている人たちにサービスするために都合よくいるような気がする。
そういうふうに感じたのは「黄泉がえり」の人たちに対する生きている人たちからの「さぞ辛い思いをしたろうね(一番辛かったのは死んだ本人でしょ。みんな天寿をまっとうしてない人ばかりだし)、せっかく貰った命だから第2の人生楽しみな」などのように、自分が嬉しいという以上に相手の立場で喜んであげたり、かれらの社会復帰をいの一番で考えたりとかという思いやりの気持ち、あるいは「黄泉がえり」の人たちの側からの思いのシーンが少ないからだと思う。主人公のパートより、その他の人物たちのパートのほうが良いのは、「黄泉がえり」の人たちの思いや、彼らへの思いやりが描けているからだと思う。
「おれっておよびじゃなかったのかな?」と店への階段を昇ったり降りたりするラーメン屋の主人。命の交換をした母と娘の時空を超えた対話。急に呼び戻されたと思ったら、教室の自分の机にはまだおぞましい自分への悪口がそのまま残されていて、死を決意した時の悲しい気持ちをまた思い出すはめになり「どうしてぼくは帰ってきてしまったのだろう?」と行き場を失った少年の運命を受け留めた女子中学生(長澤まさみキタ!)、父のように弟を見守る兄と、兄を尊敬する弟なんかのシーンには、一方的な愛ではない、相互の「思い」「思われ」が感じられる。われ思う故にわれあり、と同時に、われ思われるゆえにわれありなのだ。ただいずれも断片的で、監督がそれを重視しているようには感じない。たまたまそうなっちゃったという感じがする。
なぜなら、主人公葵の、平太に対する思いこそ、それを語るのにふさわしい題材はないのに、そこを語らないからだ。自分が今あるのは、平太に思われていたからだ、と気が付いたからこその、心の変化であるはずなのに、そこがすごくぼやけている。作品では「何となく一緒にいて楽しくいい奴で、男として意識はしなかったけども、自分が一番自然に素直になれた平太が一番好きだったかも?」とか言っているようにしか思えなかった。もしくは、葵の設定を、単にどんでん返し的な効果としてしか考えてなかったんじゃないか、と思う。「黄泉がえり」というのが、それが単なる幻想ではないという、その価値に監督は気付いてないんじゃないか、という気さえする。まあどういうことに価値を感じるかなんて人それぞれだから、どうでもいいんだけど。
余談だが、戦争中になくなった少年が熊本の研究室への道中、電車の中で読んでいたマンガは「20世紀少年」。誰が持ってきたのかわからないけど、戦争から現代までの空白を埋めようとしている人間にパラレルワールドを読ませてどうする? 単にスタッフが何も考えないでセレクトしちゃっただけの結果だろうが、思いやりのなさでいえばこれが最強。
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