[コメント] 千年女優(2002/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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フィルモグラフィの名シーンというそれぞれは無関係な断片が寄り集まって、ひとりの女優のバイオグラフィが立ち上がってくるというアイデア。
もしベテラン俳優の過去の作品を素材として、その俳優のひととなり、一代記を描けという仕事があったら、これはかなり面白い作業になるだろうと思う。どの作品のどの場面を選択し、どういう順番に並べるか、嬉しい悩みに苦労するだろう。そしてもし編者が会心の出来で作品を作り上げたのだとしたら、それを見た観客も満足することができるのだと思う。なぜならその時、編者も観客も「その人のことがよく描けていた」と思うからだ。当然そこには、その俳優の(魅力的な)人生が、人柄が前提となっている。ところが、この作品の千代子にはそれがない。彼女という人がどういう人なのか、それが語られないからだ。主人公のディレクターが、なぜそこまで千代子を慕うのかわからない。そして観客が千代子という女性を理解しようとした時、この物語において、もっともヒントとなるのは、「なぜその人を追いかけるのか?」でしかない。その最後のピースがはまるまで、観客は完成されたパズルを楽しむことができない。そして、その解答はラストに衝撃的な真相として告げられるのである。
「あなたはパズルを作っている時が一番…(略)」
これは間違っている。確かにそういうもんだけど「一度完成させる」ということは必達条件だ。
もうひとつは言うまでもないが、この作品で紹介されるフィルモグラフィとは、実際には存在しない。全体像から逆算され、それらが結集すればいかにもその物語が形成されるであろうと思わせる、それらしい作りものである。これをうまく作るというのは腕試しとして楽しいだろう。が、完成された図柄を持たないパズルに対し、それをバラバラにちりばめ、見つけさせるというような愉しみを見させることはできないので、この作品は、一個一個のピースの形が、大勢の人がよく見聞きし親しんでいるような「ある形」で作られている、ということを発見する愉しみに依存している。「このピースって実は○○の形でできているって知ってた?」と言われても、元の○○を知らないと楽しくはないだろう。結局、作り手だけが許された愉しみでしかない。
この作品がただのコスプレアンソロジーでないのは、そういう作者の周到な意匠が組み込まれているからであるし、ヒロインに人格を持たせなかったのも、断片が全体を構成していくブリコラージュの妙、簡単にいえばアーティスティックさを純粋に味わってもらうために、あえて排除したようにも思う。が、いっそ「千代子萌え〜」のコスプレアンソロジーのほうが、男としては共感できたと思う。
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