[コメント] ファニーゲーム(1997/オーストリア)
映画を見終った人むけのレビューです。
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しかも、放置プレイの本当の餌食はあの家族ではない。時折奴らの視線は、彼らを通り越して、こちら側(観客)をチラチラ見ている。不敵な笑みを浮かべながら。
冒頭でその目論見は宣言されている。演奏家当てのゲームで散々悩ませながら、答えを宙に放り投げてしまうあのクダリ。ここでやってることも全く同じで、まずは「何故?」を一切明かさない。明かさないドコロか、デブ君の家庭環境云々なんて尤もらしい理由を鼻先でチラつかせといて、コチラが分かった気になる手前でヒョイと取り上げる。「そんなイカニモな理由のはずねーだろ」、と言わんばかりの態度で。この映画ではあらゆるヤリ口が、「かすかな期待を抱かせながら一気に放り出す(又はおとしめる)」、というタチの悪い方法論に基づいている。
さらには小道具。相手の体温が全く伝わらない、手袋越しの異様な握手の不気味さ。相手の体温ですら知覚することを許されていない。その体温を遮断する手袋と、「熱い」「冷たい」と相手の言いなりのままフラフラと愛犬の死骸を探させられるシーンは、同じ意図の下に連動している。加えて枕カバーで頭をすっぽり被せるクダリ。直接の意図は、「見せない」ことで息子の恐怖を増長させることにあるが、それだけなら別に目隠しでもいいワケで。なぜ顔全体をすっぽり覆う必要があるのか?理由はただ一つ、怒り、恐怖や絶望に歪みきった息子の顔を、両親に一切「見せない」という意図があるからに他ならない。そして真の意図がどこにあるかといえば、そのお互いを視覚で確認出来ない親子の遣り取りを、こちら(観客)に見せ付けるということ自体にあるのだろう。真のターゲットはこちら側(観客)なのだから。
観客の頭の中にはあったとしても、この映画の中の恐怖には殆どファンタジーの要素はない。さらに言えば、「怖さ」そのものの理由が分からないものがない。言ってみれば、徹頭徹尾が「知」で構築された恐怖である。ただこのコメントを書いていて分かったことだが、「知」で構築された恐怖は、「知」をもって封じ込めることができるのだ。言葉でいくらでも解体できるのだ。という意味では、考えれば考える程怖くなくなっていく。要は観ている間は、有無を言わせぬ畳み掛けにヘロヘロになっているだけで(この映画を観て「笑いが出る」というのは、半分はグッタリして筋肉が弛緩している状態のような気が)、本当の意図が解れば後は面白いように解きほぐすことができる。というワケで、ここまで考えた時点では、個人的には3点止まりの映画であったりする。
が、しかし、解体しきれない何かがかすかに残る。二人が息子を殺して去った後の、放置された二人の体が機能を取り戻すまでの長い時間を、トコトン静観するが如く映し続けるシーン。あれは人間という名の「抜け殻」を映しだしている。空洞と化した場の空気とカラダに反響する、単調なテレビの音。まるでその音の痛みに耐え切れないかのように、まずは必死にテレビを消す・・・。ということから始まり、このクダリにおいては、確かに名状し難い恐怖が宿っている気がする。静寂を破る父親の号泣は、息子の死を悼むなんて理由では簡単には説明できない。「ありったけの声を発すること」、それは見失った「自分」を死に物狂いで確認する行為でもあり、名状し難いなにかからの「助け」をも意味している、と思う。そんな人と空間をじっと静観するカメラ。個人的にはこのシーンにおいて、奴らが立ち去りながらも奴らの「視線」だけを置いていく、という離れ業をやってのけているのだと思う。ここにあるカメラの視線の質は、明らかにあの二人の挑発的なそれと同じものだと思う。
ともあれ、えてしてイケ好かない映画であるのに変わりはないけど、このシーンがある限りは、個人的には4点以上付けざるを得ないです(というか、評点不能というのが本音なんですが)。
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