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[コメント] 大いなる幻影(1999/日)

実体としての愛 言葉どおりの意味での純愛映画。
ちわわ

いわゆる恋愛映画に、おきまりのパターン、事件(例えば不倫)があって恋愛に危機が訪れるが、様々なエピソードによって愛が再び燃え上がり感動のハッピーエンド。これは恋愛を描いたのだろうか?こんなものが愛だろうか?愛はどこにあるのだろうか?

また愛を、ただベッドシーンで表現する紋切り型。性は確かに人間に本質的であろう。だが性の深淵を無視されているケースが多いのでないか?性や愛を即ベッドシーンに結びつける単純さ。

彼女、彼氏をつくってそれで満足な愛。見栄だけの恋愛。肉体だけの恋愛。ストーリーをつくってごまかす恋愛。そんな愛を駆り立てるマスコミ。愛はどこにあるのだろうか?よくわからないまま、日常会話で愛は語られ続けている。

それらの恋愛像が、この映画では徹底的に切り捨てられていく。

この映画の二人の主人公は実体のある愛を求めている。それが映画の中心であることはすぐみてとれる。映画の始め、ハルは「消えて」といわれ、ミチは「どうしてだれもなにもしないの?」といわれる。二人の感じる実体感のなさ。二人のなす行動の無力さ。それは様々な角度で描かれていく。だが、映画の最後、ハルは消えずにいられる、ミチは、はじめて何かができる。

二人はどんな実体をつかんだのか?何ができると解ったのか?

評価は、主観です。この映画も寓意はあると思う。一つ一つのシーンから意味を完全に読みとることは出来ませんが。でも大意は読みとれると思います。ここでは余分なものを切り捨てての愛の把持が表現されてます。一つのテーマから映画をつくる姿勢は、最近の黒沢清の特徴でしょう。でもこの映画の寓意は、これまでになくナチュラルなものです。そこを評価したい。

(評価:★5)

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