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[コメント] キャプテン・フィリップス(2013/米)

非モンタージュ的な、日常→非日常、あるいは、非日常→日常の連続性が面白い。
おーい粗茶

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ドキュメンタリタッチで面白いなあと思うのは、海賊の船が遠くのほうに発見されて「あ、これはやばいかも知れない」とまだ思っている「日常」から、実際に乗り込まれてしまう「非日常」までの間が省略されず連続的に描かれることだ。われわれがよく知っている日常の時間・空間から、「フィクションのような」非日常の時間・空間へ転換する際のあっけなさを見ることで、われわれの磐石のように意識されている日常の生活が、実はもろいものだ、というふうに常識が揺さぶられる。元々フィクションは常識を揺さぶられるから面白いわけだけど、フィクション慣れしている観客に対しては、フィクション内で日常→非日常が転換していくところを見せる手順が必要なのだ、ということなのだろう。そしてそういうシーンはあまり映画では見られないので新鮮で面白い。

この映画で一番私が面白く感じたのは、救出直後のパニック状態から、徐々に正気を取り戻していくまでの船長の様子だった。「どこか痛いのか」と医師に聞かれ、「とにかく俺はもう今大変な経験をしてきたばかりの大変な状態で、どこかの部位が痛いとかとかそういう小さな問題ではないわけで」っていう状態から、とりあえず「背中のここかな」っと言ってみたりする、間違ってないけどあっていない、みたいなちぐはぐなやりとりみたいな、そういういままでの映画で描くことができない情感の表現だ。つまり今度は非日常→日常への転換連続性の描写で、監督は得意とする自分のドキュメンタリタッチといわれる文体で、いままでの映画では描くことができなかった表現の中で、どういう表現が可能となるのか、いろいろ試してみているのだろう。(余談だけど、医師があえて些末な事を患者に尋ねるのは、そうすることでパニックを鎮めるためなんだろうな。)

何もない時と劇的な時で、映画的な編集を行わない、というのは、音楽で言うと、bpmが一定というか、現実の1分経過に対して、ドラマも1分経過みたいなことをしていくと、たとえば、海賊の追跡を1回は振り切りながら、2回目は放水をかいくぐられあれよあれよと乗り込まれてしまうという、1回戦・2回戦ともに観客の映画鑑賞経験的な想像を裏切れるし、船長の救出までの組織の引継ぎであるとか、Sealが海賊を射程に収めるまでの何層にも及ぶ手続きの慎重さというかじれったさが描けて面白い。要は映画のようにテンポよくサクサクといかないことこそ、いつになったら助かるんだろうという、船長の極限状態の表現につながるのだ。こういう編集をすれば、ふつう観ているほうはダレるわけだが、そこをカット割りや、音楽の使い方で飽きさせずに観させるところこそ、監督の真骨頂なのだろう。劇的な場面になると、パーカッション主体の音楽でアップテンポに感じさせていくが、実はbpmは一定、という作りは、音楽の編曲による緩急のつけかたと同じような理屈で作られている。

あと、いったん非日常世界に入ってから、海賊との船員の攻防、救命艇内での密室劇、同じく海軍による包囲戦、そこでの演出は、ドキュメンタリっぽいというよりは、むしろ正攻法のドラマ演出になっていて、ボーンシリーズのような娯楽アクションもきちんと撮れる監督の上手いところと思う。

最後の船長の感情の爆発は、監督の演出スタイルの勝利ではなくトム・ハンクスの演技の勝利と思う。こういう自分自身のコントロールによるものでない、誰かや何かが引き起こすものをとらえていくことこそが、監督がもっとも求めていたことだとしたら、もしかしたら監督はこれをきっかけに、自分がテンポやタッチで絶妙にコントールしていく演出スタイルから、役者の芝居から何かを引き出す、その可能性を重視したものに今後かえたりするかもなあ、などども思った。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)t3b[*] irodori サイモン64[*]

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