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[コメント] 原爆の子(1952/日)

上映時間の殆ど9割はトーンを抑え、被爆の光景や火災シーン(正確にはその直前の滝沢修の演技)を近接撮影や全編通じて唯一の手持ちキャメラ撮影でトーンを上げる。声高さを排除し静謐さを基調として人物の強い感情を浮上させる手綱捌きが優れている。
ジェリー

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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どの登場人物も、科白を言う時以上に、他の役者の科白を聞いているときの演技が上手だ。言葉に対して言葉で返さずに表情や視線の動きから生まれる余韻のような感情表現が巧みだ。その特徴がこの映画の9割部分の静謐感を支える。そうした特長を最も強く出しているのが乙羽信子(主人公石川孝子役)である。トーンの高い部分は滝沢修北林谷栄らが引き受けている。

この映画のもう一つの素晴らしさは効果音。ラストの飛行機の音などうまいものだが、とくにヤマ場でもない場に入る蝉の声や、唱歌の声、鐘の音、ようやく街路を通り始めた車両の音などが当時の広島をリアルに再現する。

しかしながら、あえて新藤兼人は、「ぴか」のシーンからは音を奪い、短いカットのドキュメンタリー調の被災者のカットの積み重ねだけで原爆を描くのである。石畳のしみと化した人物のシーンには震えを禁じることが出来なかった。

(ここからは本作の結末部分だけではなく『砂の器』のストーリーにも多少触れますのでご了解ください)

突飛な余談で恐縮だが、この岩吉と太郎の祖父・孫の関係が、『砂の器』の千代吉、英夫の関係の原型になっているような気がしてならない。『砂の器』が『ここに泉あり』を参考にしているのではないかという推測を、『ここに泉あり』の作品評で触れたことがあるが、ひょっとすると『砂の器』制作陣は、本作品も参考にしながら原作を膨らませたのではないだろうかと考えてしまった。老いた祖父が孫の太郎を手放すにいたる家庭事情や動機が、千代吉が秀夫を手放すに至るプロセスにかなり重なるようだ。

似ているかどうか分からないのは、秀夫のその後と、太郎のその後だ。秀夫のその後は『砂の器』のストーリーの核心になっているがあの通り。太郎のその後は本作のテーマではないので当然描かれてはいないのだが、このあとどう育っていくだろうか。

さらに余談だが、殿山泰司 は本作にも『砂の器』にも登場する。その上を行くのが大滝秀司で本作、『砂の器』、『ここに泉あり』全作に登場する。それにしてもタイトルには名前がクレジットされているのだがさてどこに出ていただろうか。

(評価:★5)

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