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[コメント] ここに泉あり(1955/日)

「泉」は今もあるでしょうか。
ジェリー

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







この映画、結構くどい。どのくらいくどいかというと、チャイコフスキーのピアノ協奏曲やベートーベンの第九交響曲の1楽章をまるごと聴かせるぐらい、くどい。(選曲だけを見てもわかりますよね) 上映時間も2時間半くらいある。

しかし、このくどさの果てに「泉」がある。

楽団員が、喧嘩をして解散ということになり、明日が最後の演奏会ということで山を越えて僻遠の小さな小学校に行き、大きな喝采を得る。聴衆の小学生と手を振って別れるそのとき「夕焼け小焼け」の少年少女合唱が静かに流れる。ここに長い旅路の果てのなんともなつかしいカタルシスがある。

しかも映画はここで終わらない。カタルシスが延々とこの後も持続する。最後、第九の終楽章をまるごと(といってもおそらく多少の編集はあるのだが)聞かせながら、映像は、楽団員たちの春夏秋冬変わることのない困難な楽旅の風景を追っていく(「砂の器」の巡礼シーンを想起してほしい)。

ここまでいって伝えたかったものがある。また、ここまでやらないと伝わらないものがある。あとをひくものの、魅力。

「くどさ」を今われわれは嫌うようになった。どちらかというとさらっと流れて、はっと気づかせそれで完結するようなものを好む。それが歴史が培った日本人の美意識と思っている一面もある。しかし、この時代の(昭和30年ごろ)の日本映画の、何かものにとりつかれたようなくどさ・熱さの魅力を忘れたくない。私が今もなお、この時代の日本映画をみたくなる理由は、そこにある。黒澤明作品がその遺作までもち続けていたもの、これです。(ちょっと腐臭がただよってたけど)

映画のテーマと演出の形式の幸せな合一を体現した一作として、この映画は忘れられないものとなった。

(評価:★4)

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