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[コメント] 赤線地帯(1956/日)

「戦争が終わってアメリカさんが来たら、素人さんを守ってくれ、防波堤になってくれなんて、いーい調子でおだてられちまってね」というセリフは事実。 (レビューはなぜか赤線の背景について)
木魚のおと

日本が戦争に負けて、国がまず取りかかった事業は、戦勝国の軍隊から女性の貞操を守るために、専用の慰安施設をつくることだった。 終戦からわずか3日後の昭和20年8月18日、内務省は大蔵省主税局長(後の総理大臣である)池田勇人に3000万円の予算を調達させ、外国駐屯軍慰安施設の準備を開始、8月26日には銀座に「特殊慰安施設協会(通称:RAA)」が設置された。

次に必要なのは、国のために防波堤となる女性たち。 この女性の調達は、なんと各地の警察署長が直に担当した。 また玄人筋の協力を得るために、進藤英太郎 のような業者を集め、皇居前広場で設立宣誓式を執り行っている。 まさに国を挙げての大事業だったのである。

もちろん娼妓、酌婦、芸妓などの玄人だけでは受け皿が足りない。 そこでRAAは『事務員募集』の貼り紙を出して、訪れた一般女性をかたっぱしから業務に就かせた。 その数約7万人。 平たくいえば、国が率先して売春婦を養成していたのである。

だが、連合国総司令部(GHQ)はこの動きを否定する。 昭和21年3月10日、性病防止などを理由にRAAの閉鎖が通告された。

性の防波堤として駆り集められた女性たちは、キズモノにされた上、わずか半年あまりで路頭に迷うことになったのである。 そんな彼女たちが行き着く先は、やはり夜の女だったのだろう。 戦後横行した闇の女、パンパンの起源はRAAであるとハッキリ指摘している書物もある(「日本の貞操」)。

RAAの解体後、街娼の横行に頭を悩ませたGHQ及び政府は、特別区域を赤線で区切り、その内部での売春を許容した。 これが赤線の始まりである。 そこには、RAAによって苦界に堕とされた女たちも、少なからずいたという。

参考文献:「国家売春命令」

(評価:★4)

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