[コメント] 愛の予感(2007/日)
夢遊病者のような虚ろさに支配された男と女。心の氷解の兆しが無意識の行為として日常に顔を出し、日常を打開せんがための意志を秘めた行動は互いの反発を生む。想像を絶する事態に見舞われた男と女が繰り返す葛藤と不器用な脱出の予感が、何故か共感を呼び起こす。
『ストレンジャー・ザン・パラダイス』のコメントに、「日常は、過去と現在と未来が連続しているから成り立つ。“現在”だけが、ただ繰り返し時間が過ぎていくときに、人は孤独を自覚する」と書いたことを思い出した。
この感覚は、「孤独さ」にみまわれた期間の長短や痛手の深さの差はあるにしろ、誰しもが経験したことがある感覚ではないだろうか。例えば、自信満々で望んだ事態で大失態を演じてしまったとき、いつの間にか自分が友人たち輪の外にいることに気づいたとき、当然のごとく自分の将来として目指していた進むべく進路が一瞬にして断たれたとき。
そんなとき、もはや自分の力では、立ち直ることはできないと思えるほどの絶望感に包まれたことはないだろうか。しかし、私たちはそれを克服できるし、たいていの人は乗り越えてきたはずだ。確かに「自分の力では」どうすることもできなかったのかもしれない。だが、もう少し正確に書くと、その絶望は「自分の力だけでは」どうすることもできなかったということなのだ。
自分ひとりで、どんなにあがいても、その絶望や孤独の出口は見えない。そこには必ず、たとえ脆弱で頼りない存在であったとしても、出口の目印となる他者の存在が必要なのだ。この失意の男(小林政広)と女(渡辺真起子)の、終わりの見えないあがきと、すれ違い続ける終わりの予感が観る者に不思議な共感を呼び起こすのは、実は誰しもがかつて同じ体験をし、同じ想いを心のどこかに共有しているからなのだ。
あるいは、そんな共感を無意識のうちに求めならなければいけないほど、今の世の中に孤独が蔓延しているからだとも言える。
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