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[コメント] 相棒 劇場版 絶体絶命!42.195km 東京ビッグシティマラソン(2008/日)

冒頭から核心へと向かうテンポの小気味よさは手馴れたものだが、肝心のマラソンシーンはただ壮観なだけで、そこに緊迫感や恐怖感をうむ工夫を感じない。天罰を受ける側の恐怖を浮き彫りにしないかぎり、物語の主題が身にしみて観客に伝わることはないであろう。
ぽんしゅう

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







以降は、ほぼ全文「ネタバレ」です。映画未見の方は、ここから先は読まないことを強くおすすめします。

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大衆によって、激しく「消費」された人びとの悲劇。もしも、それが主題であるとするならば犯人は底なしの虚無を生きる人であって欲しかった。なぜなら、あの無念の号泣もまた映画というメディアを通して、観客という大衆にいともたやすく「消費」されてしまうたぐいの予定調和でしかないからだ。犯人の復讐が底知れぬ虚無に起点を発していたならば、いかに人の痛みに鈍感に成りうせた私たちであろうとも、恐怖感と拒絶心の先に犯人の悲しみと怒りを多少とも共有し得たかもしれない。

犯人とその家族は、情報の送り手としてのメディアと受けてとしての大衆によって、彼らの存在そのものを「消費」しつくされた。まず、メディアでの発言者たちに向けられた断罪の矛先は、次にシティマラソンの参加者という大衆に向けられる。復讐の対象となったマラソン参加者と観客とは、大衆のなかからたまたま抽出された私たちの身代わりであるにもかかわらず、その恐怖が緊迫感を持って見るものに伝わらない限り、断罪されているのが自分自身であることにすら気づけないのだ。まして、犯人の銃は良心の象徴ですらあったのだから。

パッシングにさらされ、大衆に消費されていく「人の悲しみ」という極めて今日的な問題を扱いながら、いまひとつ観る者に、加害当事者としての戸惑いやかすかな反省心すら起きないのは、復讐者と狙われたシティマラソンという設定に対して、観客が恐怖を共有できるだけのアイディアや演出が足りなかったためだろう。

ここまで書いて、「いや、それは違う。お前こそが、人の悲しみに鈍感になりうせた現代人そのものなのだ」という声が聞こえてきた。確かに、映画の出来、不出来にかこつけて現実に存在するものに、また卑怯にも背を向けているだけなのかもしれない。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)死ぬまでシネマ[*] freetree[*]

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