[コメント] レスラー(2008/米=仏)
ランディのひのき舞台は、まさしくリングに登ったその時から始まる。クライマックスは、コーナーの支柱に仁王立ちし、いままさにラム・ジャムを決めんと、リングと客席を眼下に見下ろすときだ。しかしランディは、これ以上はもう上昇も飛翔もしない。次の瞬間、身を呈しての敵レスラーめがけて彼の肉体は落下する。そして観客の喝采の嵐。これをランディは数十年に渡って続けてきたのだ。
ランディがリングの上に立つとき以外、カメラはドキュメンタリーのように彼の背中を追い続ける。そこには、ひのき舞台に登る前の男の、傷んだ肉体と不器用な振る舞いの数々が映し出される。この視線の主は、まぎれもなく観客、すなわち我々の目である。この心身を消耗しながら生き続ける熟年男の人生は、作中でほのめかされる「キリストの受難」などという美徳話しではなく、我々自身の生身の問題として提示されているのだ。
もしもランディーが、上昇し飛翔することを目指した男だったら、多大な富を手していたかもしれない。しかし、富が必ずや孤独の防波堤となることを約束しているわけではない。数十年の歳月がもたらしたランディーの孤独は、何も特別なものではない。誰もが、もちろんプロレスラーでなくても、経験しうる孤独なのだ。すでに自己の責任で人生を歩み始めた者なら、自らの将来が彼と同じ孤独につつまれる可能性がゼロではないことに気づいているはずである。
輝くような若い肉体と精神も、いつしか潰えるものなのだ。だからこそ、プロレスラー〈ランディ・“ザ・ラム”・ロビンソン〉の、そしてミッキー・ロークの、いびつな容姿と不器用な振る舞いに我々は胸打たれるのだ。愚直な生きざまの先にある悦楽や孤独は、すでに幸福や不幸といった価値を超越してしまっているのだ。
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