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[コメント] 牛泥棒(1943/米)

後味の悪さも含め、ガツンっとくる作品です。低予算を逆手に取った傑作。
甘崎庵

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 これまで結構な数の映画を観てきた気がするが、自分にとって良作かどうかというのは、基準がいくつかあるものの、たいていの場合最初から30分ほどで分かるのが多い。中には最初は退屈きわまりないながら、中盤辺りからじわーっと面白くなっていく作品もある。

 しかし、何事にも例外はある。終わってしまった後で「なんだ。良い映画じゃないか」と思える作品というのも確かに存在するものだ。狙ってどんでん返しを狙った作品もあるが、観終えた瞬間「これで終わり?」と思って、それでもう一度頭の中で初めから考え直したら、「凄い作品だった」と思えるのもある。これは極めて少ないが、その特殊なパターンの衝撃を与えてくれたのが本作だった。

 本作は全くの予備知識なしに観たため、一見低予算の西部劇にしか見えない作品で、正直本作を観始めた時点では全く期待も何も持ってなかった。それに展開も退屈だったし、色々とすったもんだがあって町の人たちが犯人かどうか分からずにリンチ事件を起こし、縛り首にもしてしまう。そこまでは良かった。

 しかし、この物語にはその後、ほんの僅かな続きがあった。

 実は縛り首にしたのは完全な冤罪であったということ。悪かったのは早とちりした町の人たちの方で、縛り首にした三人は完全に正しかった。

 しかも、その事実が発覚した直後、本来ここから物語が始まるはずの場所で唐突に物語は終了してしまう。

 後味の悪さで言えば一種最高の作品だった。

 しかし、この後味の悪さこそが、実は本作では最も重要な点であり、他の西部劇とは明らかに一線を画する大きな特徴となっていたのだ。

 本作が製作されるまでに既にアカデミー賞が登場して15年が経過。しかしその間西部劇は不当な位置関係におかれ続けていた。アカデミーは殊更娯楽作に対しては冷淡であり続け、西部劇は西部劇で、我が道を行く作品を作り続けた。そのお陰で西部劇は同じ映画でありながらも、賞からはそっぽを向かれ続けていた。

 当時のアカデミーは何かしら考えさせられるような高尚な内容を持つものをなるだけ賞の対象にしようとし続けていた。単純でスカッとした気分にさせる作品は見向きされなかったわけだ。

 似たような題材を取ったとしても、例えばジョン=ウェインあたりだったら、そう言う悪さえも力業で正義にしてしまっただろう(実際そう言う作品は結構多い)。力であらゆる物事を押し通し、それを敢えて正義と言い張る。これでは確かにアカデミー受けは悪いわけだ。

 この作品に明確な善悪は無い。確かに誤解で殺人を犯してはいるのだが、これは人道的には犯罪に関することでも、警察に任せず自分たちで原因究明を行うというのは町の習慣に従っただけの話であり、その結果が不幸に終わったとしても、町は変わらない。極めて中途半端な位置に置かれてしまう。

 あるいはこの後、正義感あふれるフォンダ演じるカーターがこの罪をしかるべきと頃に告発するのかもしれないし、あるいはどこかからこの罪が漏れていくかもしれない。はたまた、町中で全ての罪を隠してしまい、何事も起こらなかったと主張するか、それは全く分からない。分からないからこそ考えさせられる。法とはいったい何だろうか?司法の名を借りた非人間的な行いが行われても、やはり法なのだろうか?

 ラストでフォンダ演じるカーターが処刑された男が妻に宛てた手紙が読み上げられる。「俺の苦痛は一瞬だが、彼らは終生良心の呵責から逃れられまい。俺はそれを気の毒にさえ思えてくる。掟というのは、めいめいが心の中に持っている良心のことなのだ」と。

 アカデミーにとって、一番重要なのは、観客に考えさせるという課程に他ならない。その意味で、たしかに西部劇としては大変中途半端な本作は、初めてアカデミー審査員を唸らせた西部劇となり、以降の西部劇の作りに一石を投じる結果となった。

 それと本作は低予算で作られたと言う割に、えらく俳優が豪華なのも特徴で、主人公のヘンリー=フォンダを初めとして、殺されてしまう三人の中にはジョン=フォードの兄であるフランシスや、アンソニー=クインまで入っている。これが10年後だったら実現しなかった配役だな。

(評価:★4)

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