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[コメント] 立喰師列伝(2006/日)

贔屓のし通しと言うならいくらでも受けます。この作品は最高です!
甘崎庵

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 押井守という監督はそもそもデビュー当時からこよなく“立喰”を愛し、自ら演出した数多くの作品に立喰師を登場させてきた。それこそデビュー当時のタツノコアニメ『ヤッターマン』から始まり、少なくとも監督が手がけたアニメ作品のほとんどには登場する立喰師達。いわばこれは監督のライフ・ワークとも言える話で、事ある毎にこれを映画化するのが夢だ。と語っていたものだ。

 それがいつしか立喰師列伝という本になり、その映画化として本作があった。

 こういう経緯があるだけに、本作は完全なる監督の趣味として作られた作品で、これが許されるのは、大作作りを尻込みする監督に餌を撒いてやって、それできちんとした作品を作らせようと言う製作側の思惑があってこそ(監督の『トーキング・ヘッド』(1992)は『機動警察パトレイバー2 THE MOVIE』(1993)作ってもらうためにわざわざ作らせたという経緯がある)。ところがコアな押井ファンになると、大作よりもこういう趣味に溢れた作品の方を好むようになっていき、私としてはこれだけ監督に好き放題作ってもらえたというその事実だけでとても嬉しいこと。

 それに本作は映画としてはかなり型破りながらも、完成度が低い訳では決してない。監督の作りたいように、しかも実験的なものとして作ったとしても、充分に面白いものが出来るという…否、監督が作りたいように作ったからこそ面白いものが出来るという何よりの証拠となるだろう。

 尤も本作自体は監督自身が書いた原作の立喰師列伝をベースとし、実際はなんら本の内容から逸脱することはないのだが、目で字面を追うだけではなく、実際多くの資料的な映像を見せられることによって、その時代というものを改めて感じさせてくれるので、小説の映画化とはこういう事も一つの目的なのだ。と改めて感じさせられた次第…この作品を“観た”のなら、是非今度は“読んで”欲しい。映画ではわかりにくかったことがよく分かるだろうし、映画のビジュアル性の威力というものを改めて感じることが出来るだろう。

 本作は“スーパー・ライブメーション”と銘打っている。これはこの作品のために作られた造語。基本的に物語は『ラ・ジュテ』(1962)のようなスチール写真の連続で物語を作り出しているのだが、それに動きを演出する方法だが、これはかつて『Avalon』(2001)で用いられた実写を素材にするやり方と『ミニパト』(2002)のペープサート方式を合わせたようなやり方で、かつて押井監督が言っていた「全ての映画はアニメになる」の実践の一つといえよう。自分の思いをただ映画にするだけでなく、しっかり実験的アニメーションとして作り上げたのも面白い。実際はこのやり方だと金があまり必要ないという経済的な意味もあったそうでこの方法だと素材となる人物は素人で構わず(実際ここでプロの役者は兵藤まこだけ)、しかも拘束時間が少ないので俳優に使う金を極限まで減らすことが出来、更に映画そのものは学生に任せてしまうという(次世代のトップアニメーターはこんな所から出てくるのかもしれない)…驚くほどの低予算で、しかもやりようによってはしっかりしたものが出来るので、(部分的には)これから新しい映画作りとして考えられていくかも知れない。

 …

 と、当たり障りのない話はとりあえずとしておいて、さて、本作をどう称すべきか。

 以降私自身の妄想を描かせていただこう(当然ながら当人に確認を取っている訳ではないから本当に妄想に過ぎない。一ファンの押井守という人物に対する思い入れと思ってくれて構わないし、以降は読まなくても結構)。

 先ず何故監督が“立喰師”なるものを創造し、それをこんなに思い入れたっぷりに描くようになったのか。

 これは監督本人が「私の前世は犬だったに違いない」などと妄言を吐くことから分かるが、路傍に立ってメシを喰うのが好きだと言うことが挙げられるだろうが、それが何故か。と考えるに、これは私自身にもあることだが、世の中に対し、斜に構えることを自らに課した人間の行いであろうと思われる。

 人の群れに自らを投じることなく、更に「世界のため」と称しつつ、象牙の塔に籠もって自分のやりたいことだけをしているのでもない。これは社会と半歩ずれた所に自らを置くことで、社会を冷静に見ようとする姿勢である。これを何かの役に立てることなく、ただ自己満足のために行っているのが、結局は立喰師の姿であり、それこそが押井守という人物の理想の姿なのではないだろうかと思える。

 こういう生き方は、端から見ていると、何の意味も持たないように見えるし、人生を浪費しているかのようにさえ見えてしまうだろう。しかし、実はそう言われることこそ何よりも嬉しい人間というのが世の中には存在するものだ。

 押井守は映画監督として、特に日本におけるディジタルアニメーションの旗手としてすっかり有名になった感のある監督ではあり、そう言う面についてはいくらでも新しいアイディアを投入する人であっても、どこかにそう言うアウトサイダー的な立ち位置を必要としており、それを立喰師という理想的な姿として自らを投影したのが一つだろう。

 これだと、あくまでアウトサイダーとしての立喰師が描かれるだけで済んでしまうはずだった。立喰師の登場というのはそもそも監督の理想から生まれてきたものだと思うが、それがゲリラ的にアニメに挿入されていならば、単に謎の人物で、「又押井がやったな」とファンに言われる程度で済んだ。

 それが徐々に前面に出てきたのは、やはりここに一つの使命というか、役割を演じさせることによって、時代を描くことが出来るのではないか?と思ったのではないだろうか?

 ここで描かれるそれぞれの時代は架空の街並みであると同時に、昭和という時代に見事にコミットしている。その中で狂乱の時代をピックアップする事によって、現代という一時代を作るためにどういう事が行われていたか、そしてその中で何を日本は切り捨ててきたのか。それを街角の人物を描くことによって客観的に観ることが出来るのでは?これが押井監督の中に生まれてきた“新しい”立喰師の役割だったのだろう。

 監督の創造した立喰師というのは、その時代でなければ生きていけない人物ばかり。そのゴトぶりも、当時の世相に合わせて行われてきている。この時代だからこそ、こういうやり方を行える。逆に言えば、彼らの仕事ぶりこそが実は時代そのものを描いていることになる。それは決して表舞台には出ないハード面ではなく、もっとメンタルな、当時の人間の心象風景として。

 立喰師は店主のメンタルな部分に関わらねばメシを喰うことが出来ない。それは時として相手のノスタルジーや誇りを際だたせることによって、時に欲を刺激することによって、そして時にそれは自己破壊的願望によって…ここに描かれる立喰師こそが、実はその時代の“心”なのである。

 それが出来る!と踏んだからこそ、この作品が世に出せるようになった。  ただしそれははっきり言って、負け犬の遠吠えである。これを知ったからと言って、時代が変わる訳でもなければ、これからどうすべきか。と言う所まで立ち入ることはない。そう、かつて監督が『機動警察パトレイバー2 THE MOVIE』で描いた、どうしようもない状況をどうしようもないとして描くやり方である。

 監督自身、本作をライフ・ワークとして位置づけている一方、これは世に出すべきではないと言う考えを常に持っていたと言っていたが、負け犬の遠吠えは人に聴かせるべきものではないもの。自分一人だけでそれは充分だという思いの両側面を持っていたからなのだろう。

 その意味で、ここに登場する立喰師達は押井守の分身であり、その韜晦の歴史そのものでもある。一種の私小説として観ておくに値すると思う。

 それに、これは何人かで観ると良いと思う。後で話していく内に自分の事を喋るようになるだろうから(笑)

(評価:★5)

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