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[コメント] シベリアの理髪師(1999/仏=露=伊=チェコ)

ロシアより愛を込めて、ロシアへ愛をこめて。 [尋ね人]アンドレイ・コンチャロフスキー殿、ご存命でしたらご一報のほどを。
らむたら

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







この映画は鍵の一つは1905年という年にあると思われる。血の日曜日事件とその後の第一次ロシア革命によってロマノフ朝による帝政が揺らぎ、日露戦争を続行する体力がなくなってアメリカ大統領T.ルーズベルトの仲介でポーツマスにて和平条約が結ばれた。ロシアのニコライ二世の専制政治から西欧的立憲制への移行した年であるが、ここで重要なのは帝国主義的膨張であるアジアへの東進が一頓挫した年であるという意義。ジェーンがこの年に手紙を書かなければならない絶対的な必然性はなかったわけだし、ニキータ・ミハルコフはこの年自体に意味を付与していると思われるから。それとも単にナロードニキによる漸進的な革命運動が挫折した結果、一部が過激化して、ツァー・アレクサンドル2世の暗殺を始めとするテロルが横行した1880年代前半が時代設定に必要であり、息子アンドレイの成長期間の20年が必要だったことからの帰結なのだろうか? ただ単にそれだけとも思われるし、“シベリアの理髪師”なる変てこなタイガの伐採マシーンが唯物論的な機械文明と帝国主義(西欧的資本主義のなれの果てとしての)の象徴と解すると、ミハルコフは東進が頓挫した1905年という年に片足を置いて重心をかけるとともに、映画の中で(確か)アンドレイがロシアを評していった「ロシアの原動力は“憧れ”」という言葉にこめられた当時のロシア、ロシア人、西欧の物猿真似、西欧への劣等感などに対する批判や揶揄や戯画にもう一方の足を置いているとも思われる。「イギリスの推進力は“機関車”」であり、西欧に憧れた挙句、機関車の戯画でしかない“シベリアの理髪師”を作ってしまった「ロシアの原動力は“憧れ”」なのだから。そう考えるとミハルコフのスラブ主義的色彩が前により鮮やかに浮かび上がってくる。映画中の狂想的で滑稽で土俗的な祭りの場面はあまりにもロシア的であり、「ロシアはよく分からん」を登場人物に連発させながらも、「おら、そんなロシアが好きなんだぁ」という監督自身のロシアに対する愛情をひしひしと感じてしまう。逆にいえば画一的な社会主義リアリズムを押し付けるロシアでないソ連への反発も感じる。結局のところミハルコフは兄貴のように芸術(映画)活動の拠点を“自由の国”アメリカに求めなかった。ヨーロッパに留まって、ロシアにこだわって、ロシアとの関係で描いた。この人は反骨精神のあるスラブ主義者なのだなぁとも思ったが、あのモーツァルトへの愛着はモーツァルトを崇拝していたチャイコフスキーなどを想起させるし、チャイコフスキー自身はスラブ派と西洋派の折衷主義者であったことを鑑みると、こちこちのスラブ主義者=大ロシア主義者ではないと思われ、その態度に柔軟性を感じるとともに政治とは距離を置いていることもなんとなく窺える。

と、つらつら考えたけど、『シベリアの理髪師』と聞けば思いつくのは歌劇“セビリアの理髪師”。で、実際のところその歌劇と“フィガロの結婚”のアリアが重要な出会いの場面で二人を結び付けたりしてて、単なる駄洒落か……とも思ったりする。冒頭では息子アンドレイが訓練前に散髪され、後には父親アンドレイが流刑囚となり、流刑囚の証として髪を半分切られる。更に流刑地であるシベリアの自分の家に“シベリアの理髪師”なる看板を出してたりする。父親と息子、過去と未来が遊び心によって重なる。遊び心というか茶目っ気というか諧謔精神はなんとなくゴーゴリやドストエフスキー風でもあるが、同時に物語の筋や美しい映像にはツルゲーネフ的なリリシズムやリアリズムも感じる。いや、正確にはチェーホフ的か? そう考えていると連想されるのがツルゲーネフの『貴族の巣』を作った兄貴のアンドレイ・コンチャロフスキー・ミハイロフのこと。実際、主人公の名も息子の名もアンドレイだし、アメリカとロシアの往来などなど妙に符合点が多い。それに“シベリアの理髪師”なる機関車もどきのマシーンは兄貴の映画の『暴走機関車』を想起させるし、発明狂のオヤジは『デッド・フォール』に登場する007ばりの発明狂を想起させる。さて、コンチャロフスキーは今何をやってるのか? 生きてるんだろうか? 

全くの想像だが、アンドレイ・タルコフスキーにしてもそうだけど、ソ連時代の多くの芸術家は自由な創作環境を求めて海外亡命したり移住したりしているが、アンドレイがアメリカに製作拠点を求めたのもそれと関係してるんじゃないのか? 『或る人々』は確かカンヌで主演女優賞か何か受賞しているし、黒澤明の脚本で有名な『暴走機関車』にしてもそこそこ芸術的に成功していたと思われるが、『デッド・フォール』などはB級と評されかねないアクション・コメディだし、政治性の強い『映写技師は見ていた』以降の作品は知らない。どうも自身の芸術における信念や価値観へのこだわりとハリウッド式商業主義との折り合いをつけられなかったうちに、取り残されて自然と第一線から消えてしまった感がある。で、思いつくのは「モーツァルトは偉大な作曲家です!」というセリフ。もちろんモーツァルトはロシア人ではないが、この映画の中では「モーツァルトはロシア人ですか?」なんてセリフもあったりするけど、あのモーツァルトへのこだわりは芸術における信念や価値観へのこだわりの比喩でもあるのだろう。「モーツァルトはくそったれ!」と広言し、更に訓練生みんなに強制的にいわせようとする強権的(ユーモラスだが)な軍曹は、監督の芸術に対するこだわりを一笑に付して商業主義を重視して、その芸術志向を軽視(場合によっては軽蔑)するハリウッド式に対する批判とも風刺ともとれるし、それによって自身の芸術家としての節操に忠実たろうとした兄貴を称えると同時に弟が兄貴の仇討ち、フィクションによるノンフィクションへの逆襲をしているともとれる。要するにロシア人アンドレイ・コンチャロフスキーがアメリカ資本で撮った映画はまさしくロシアとアメリカの混血児であるし、その混血児が「モーツァルトは偉大な芸術家」であることをついには軍曹に認めさせる展開はニキータのアンドレイに対するオマージュのようにも感じられる。「勝手にコンチャロフスキーを殺すな!」という抗議を受けそうだが、このreview的には彼が死んでいてくれたほうがオチが決まるって纏まりがつく。

さらにあのセリフにはソ連時代自由な創作活動ができなかったであろうニキータ自身の芸術家たることの矜持のあらわれでもあると思う。権力に屈することなく、自分の信念や価値観を貫き通してきたんだという誇りと自負があのセリフには込められている。そしてモーツァルトがこの映画の主役たちの出会いの切っ掛けであり、破局の原因であり、重要な場面で一貫して用いられている点からして、彼にとって人生と芸術が切っても切れない関係であることがわかる。とどのつまりこの映画は悲恋物語でもあるが、“芸術讃歌”であり、“人生讃歌”であるのだ。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)moot kazby[*]

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