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[コメント] ムトゥ 踊るマハラジャ(1995/インド)

あらゆる娯楽の果てに待つ、巨大な法悦
ペンクロフ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







はじめてこの映画を観たときは、あまりのキャラクターの濃さ、メチャクチャなアクション、愉快な楽曲に心を奪われて興奮しっぱなしであった。数年後の今観てみると、とにかく完成度の高さに驚かされた。

たぶんタミル語映画においては、脚本と歌の歌詞は区別できぬ一体のものなのだろう。オープニング、馬車を駆りつつムトゥが歌う主題歌がまさしく「主題」歌であり、この映画のテーマほとんどすべてがあの歌詞に凝縮されていると言っていい。物語は絶妙のサジ加減でこの主題を伝えきっている。そう、要するにこの映画は脚本が実によく練られているのだ。テーマつまり「伝えたいこと」を過不足なくストレートに伝えつつ、寄り道的な娯楽要素は限度を超えて山盛りに詰めこまれており観客を圧倒する。これはタミル語映画の長い歴史の末に生まれた、必殺の方程式なのだろうな。

この映画において、主人に仕える使用人ムトゥは厳格な階級制度の中にいる。この映画が階級制度をさも当たり前のように描いていることは我々平和ボケの日本人を驚かせるのだが、使用人ムトゥが何の疑問も持たず主人に仕え、主人を愛しているその姿は驚きを超え、我々を感動させるのだ。ああ、確かに学校では全ての人間は平等だと教わった。インドに今も残る身分制度を、素晴らしいもんとは思わない。しかしそこには明らかに立派な社会があり古い文化があり、それらが我々のそれとは違う理屈で動いているのもまた明白なのだ。そこは日本人にとっては異世界かもしれないが、異世界の物語だから感情移入できないとはならない。感動できないとはならない。

物語は終盤に使用人ムトゥの出生にまつわる秘密を明かし、主人とムトゥの間には身分の逆転現象が起こる。しかしムトゥは、かつての主人を愛する感情を一切捨てない。二人の関係は今後どうなっていくのか、しかしそこのところをこの映画は明確に示さずに終わる。とにかくみんな笑顔で馬車に乗って、いい感じで終わる。この驚くべきいいかげんさも、またオレを感動させたのだ。階級制度はこの物語の重要な要素ではあるが、とどのつまりどうだっていいんだ。ムトゥの愛と冒険を描いたこの長大な映画は、最後に「主題」歌に戻る。主人はこの世に唯一人、苦しい人生はあってはならぬ、生を存分に味わうがいい。それは気恥ずかしくなってしまうほど力強い、今を生きることへの讃歌、人間讃歌である。目に見えていた階級制度などよりも、はるかに巨大な道徳観、死生観、信仰に触れて我々はびっくりして法悦に打ち震え、現世にまごうことなき極楽浄土を見いだしてまたびっくりして腰を抜かすのだ。歌と踊りとアクションとギャグ、娯楽の精髄を集めたこの映画が、最終的にはある種の宗教体験とさえ言っていい感動にまで我々を連れてゆく。こんな映画がそうそうあるわけもなく、オレはラジニカーントのタミル語映画はその後数本観たし中には気に入った映画もあるのだが、『ムトゥ』だけは全然違う。今もオレにとっては特別な映画である。

最後に、歌のシーンについて。「主人はこの世に唯一人」、「クルヴァーリ村」、「ティラーナ」、どれも本当に素晴らしい。絶妙に編集された歌と踊りが喚起する瞬間瞬間の快楽もこれ以上ないほど高いレベルだが、この映画は楽曲を映像で見せるその設計が実に優れているのだ。世界中のありとあらゆるPVも、どんな他のタミル語映画も太刀打ちできぬほど、『ムトゥ』の歌のシーンは完璧である。例えばこの小節でなぜこのカットを見せなければならないのか、すべてのコンテに厳密な設計がなされている。タミル語映画において歌のシーンは、撮影しながら振りつけ監督がアドリブで演出すると聞いたことがあるが、オレはこの映画に限っては一切信じない。例えばモーツァルトの音楽は音符が1つ違ってもダメで、「これしかない」という繋ぎになってるでしょう。『ムトゥ』の演出は、あれに近いものがある。テンションと勢いで押しきってるバカ映画だと思ったら大間違いである。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)ジョー・チップ[*] 4分33秒[*] m[*]

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