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[コメント] 蟻の兵隊(2005/日)

決して「意味」を与えられない/受け取ることを許さない死。
HW

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 この映画の中で注目したいのが、日本の人々と中国の人々との間に横たわる記憶の落差の存在が、決して意図的ではないにしろ、露わにされていることである。中国の地に渡り、かつて自身の部隊がいた村落を訪れた奥村さんは次々と日本軍に関する証言(直接のものも伝聞のものも含めて)に出会う。誤解を恐れずに言えば、ごく当たり前のように出てくる証言の多さに恐らく日本人の観客は少なからずの違和感を感じるであろう。普通の村人が村の誰それがどういった被害にあったとかどんな事件を見たといったことを村に訪れたカメラを前に道端で会話する、そのことに(特に戦後世代の)日本人はなにかショックを感じはしないだろうか?

 ある種の歴史修正主義者はこういった違和感をすかさず捕まえて中国共産党の陰謀であるとか中国人の偽証であるといった歪曲論を立てる訳だけれど、本当の問題は、この中国の人々の記憶がどこまで正確かどうかといったことではなくて、日本の人々の間にこれに対応する記憶が存在したり伝聞されたりしていない(のみならず、戦争の記憶自体が圧倒的に欠如している可能性さえある)ことではないだろうか。つまり、中国人の記憶に当たり前に登場する「日本兵」に対して、当の大陸から帰還した元「日本兵」たちから語られる記憶に果たしてどれほどの中国人が、特に中国の民衆が登場しているだろうか、ということだ。そして、この落差が恐らく元「日本兵」たちにとっても自覚されていないことが何より重大な意味を持つように思われる。

 中国の旅の最中、奥村さんはふと自分が強姦の見張りをしていたというそれまで自覚されていなかった記憶を思い出す。この映画の中で最もショッキングなシーンのひとつであろう。仲間の兵から「ここで見張っていろ」と命じられ、しばらくすると奥から「汚ぇ汚ぇ」と言いながら兵たちが戻って来た。この不可解ではあっても変哲もない出来事の記憶の持つ本当の意味にふと気がつく。そして、「奥村さん自身は強姦に加わった経験はありますか?」という質問に対して、「自分にはないが、その場にいたら、きっとしていた」と答える。

 中国の旅を経て、明らかに奥村さんの中に大きな変化が起きている。日本と中国の間に横たわる落差の中で、自覚されずに封じられていた加害記憶が蘇る。時に思わず「日本兵に戻ってしま」う自身に苦悩しながらも、奥村さんは加害者としての自分に向き合う。そして、日本兵による強姦被害者女性との対話を経た奥村さんの日本政府に対する事実究明の闘いは、それまでの被害者としてであった闘いから何かそれ以上の意味を担った闘いへと変わる。

 こうして映画自体もひとつの事件を巡る告発だけに止まらない、戦争の記憶とはなにか、という問題に迫る映画へと変わって行く。映画の中で、奥村さんは靖国で講演する小野田寛郎に「戦争美化ですか?」と問い詰める。靖国という存在には、あるいは、小野田さんが靖国で講演するという行為には(当人の意図はともかく)、個々の記憶をなにかひとつに吸い上げさせ代表させる作用があるのであろう。そして、奥村さんにはそんなものに決して代表されないしされてはたまらない記憶があるのだ(こうした意味では半ば当事者不在に自己完結的な自己反省を作る「自虐史観」にも確かに問題があるのだろう)。膨大な人々の人生を飲み込む戦争はひとりひとりの人間の記憶までもをなにかの「意味」(「国のために戦った」といった類の)へと絡め取ろうとする。そのいわば残余として「意味付け」から遥か遠くに見捨てられた存在である奥村さんたち「蟻の兵隊」の事実究明・承認の要求とは、多くの生を奪い今なお膨大な記憶を「意味」に絡み取り続ける、終わらない「大東亜戦争」との闘いであり、戦争という不条理の体験を「意味」に埋没させ、その被害・犠牲・暴力を隠蔽するものとの闘いなのだろう。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)死ぬまでシネマ[*] ぽんしゅう[*]

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