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[コメント] 青い春(2001/日)

問題は誰が主人公で、そして何より誰が僕らなのかということ。
Myurakz

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 ここは至って個人的な価値観でしかないのですが、オープニングで始まる屋上勝負が、その命賭さに対して「画的に」格好よくないという点でまず躓きます。「いーち」「パン」「にー」「パンパン」って、宴会ゲームやってるみたいなんです。恐らく松本大洋の原作ではここでガッと広がる空とかが描かれてそのマンガ的な空虚さが迫ってくるんでしょうけど、映画にはそれがないからいきなりの乗り遅れ。しかも後から聞けばそれが「番長決定戦」なわけです。

 「形骸化した番長」を面白がってるならまだ判ります。だけど九条(松田龍平)はその座を狙う連中が出てくるとキッチリ叩きのめすわけで、終始その動機が判然としない。判然としないまま新たな敵は宴会ゲームで叩き潰す。結局そのズレを自分の中で埋め切れないまま最後まで観切ってしまった形になりました。

 今作が若さ故の無軌道な衝動を描こうとしたものだと考えると、結局のところ九条というのはその傍観者に過ぎないんですよね。事実彼は終始変わることがない。結局のところ九条のその傍観者としての本質が、実は鑑賞者である僕ら、そして人生の多くの場に於いて「その他大勢」である僕らの本質なんではないかと思うんです。そんな僕らの憧れや、物語の性質、そして主人公としての立場がある故、物語は彼を番長に固執させなくてはならなかった。そして番長となる理由付けとして、弱っちい僕でも「死ぬ気になればどうにかなりそうな」屋上勝負が存在するように受け取れます。この勝負に勝ったという一点において、九条=僕らは彼らの暴走を間近で眺める権利を得ることになるんです。

 松田龍平の透明感は、その傍観者的立場をカリスマとして観せきるには充分だったと思います。ただやはり物語の核となる「衝動」に対して、彼の立場は曖昧に過ぎた。多くの若者は青木(新井浩文)に代表されるような暴走すらしないまま、ただその衝動を内に抱えて大人になっていくわけで、その点でいうなら本当は最も闇が深いのは九条であったはずなんです。傍観者の一人に過ぎない僕は、本当はそこを描いて欲しかったし、そこに共感を持っていきたかった。暴発できるのは実はたった一握りの人間なんです。

 だから結局今作は青木の映画になってしまったわけなのですが、それをそれと捉えるなら実はそれほど嫌いな映画でもなかったりします。それは上記の理由で本来なら九条が持つべきコンプレックスを、青木が肩代わりしてくれているから。自分を乗せるべき人物が分散されてしまったことが、僕を今作の「本当の傍観者」にしてしまった要因ではあるのですが、分散したにはしたなりに、乗せるべきポイントはいくつかあったってことなんだと思います。

 また青木が屋上に夜通し立ち続けるシーン。あれはあぁいう見せ方をする以上本当に立ち続けたんだろうと想像するのですが、それ故青木という登場人物以上に役者新井浩文が見えてきてしまっているシーンでした。必ずしも良いこととは言えないかも知れませんが、俳優が物語を越えてしまっているスゴいシーンだとは思います。

(評価:★3)

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