コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 欲望という名の電車(1951/米)

舞台の良さ、映画の良さをともに取り入れ、マーロン・ブランドヴィヴィアン・リーの演技バトルが、さまざまな対比の構図を映し出していく。素晴らしい題名の素晴らしい映画。(2007.07.05.)
Keita

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







舞台の映画化は一歩間違うと大変なことになるように思うのだが、この『欲望という名の電車』は舞台の良さと、それに加えて映画の良さを的確にミックスした、まさに名作と呼ぶに相応しい映画だった。

冒頭、「欲望」という電車に乗って、混沌としたニュー・オリンズの街に降り立つヴィヴィアン・リー。彼女が、困惑気味に街を徘徊するシーンを見ているだけで、妙な説明なしに映画の設定がわかってしまう。雰囲気作りが見事。こういったシーン作りの巧さはまさに映画らしい部分でもある。

逆に、舞台らしい部分での巧さが光るのが、脚本であろう。台詞の表現がひとつひとつ魅力的である。それが象徴的に表れているのが、間違いなく“欲望という名の電車”という比喩も込められたタイトル。“A Streetcar Named Desire”という原題も、邦題もともに見事なタイトルだと思う。会話が中心となる物語、台詞が活きていたのはやはり大きかった。

そして、一番見事だと感じたのは、“対比”である。都会と田舎、貴族と庶民、男と女、姉と妹、そして役柄においても演技においてもマーロン・ブランドとヴィヴィアン・リー。

この映画の構成は、中心で描かれていたヴィヴィアン・リーが、中盤から突然狂っていると見る側も感じるようになっているため、構成に欠陥があれば、終盤はついていけなくなる観客がいたように思う。だが、そうならなかったのは、物語の構成が見事な対比の上に成り立っていて、実はそちらを中心に映画を見せていたからなのだろう。

何をとっても正反対のマーロン・ブランドとヴィヴィアン・リーの迫力の演技を中心に、物語上の対比されるべき要素を重ね合わせていった。どちらのキャラクターもダメな部分も多いが、憎めない部分もある。かつて教えていた生徒の話を優しい眼差しで話すヴィヴィン・リーや、男臭く「ステラーーー!」と泣き叫びながら恋人のキム・ハンターに許しを請うマーロン・ブランド。こういう描写があることで、やはり厳しい目を向けにくくさせるのだ。

ラストシーン、ヴィヴィアン・リーを可愛そうに思いつつも、ここまでの精神的な痛さは救いようがないとも思う。マーロン・ブランドを酷い男と思いつつも、正しい選択をしたかもしれないとも思う。誰にも止められない「欲望」という電車に乗った人々の複雑な感情を、映像が全編通して伝え続けてくれた映画だった。

(評価:★5)

投票

このコメントを気に入った人達 (1 人)ダリア

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。