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[コメント] バーバー(2001/米)

それが真実であるかどうかは問題ではない。相手の心に伝われば、それが真実。
たわば

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







なぜ私がこの映画を大好きなのかと言うと、私はこの映画から人生の真実を学んだからに他ならない。しかしそれは「人生はままならない」などと言う嘆きのような諦念ではなく、もっとポジティブに人生を切り開くヒントがこの映画にはあったからだ。私がその事に気づくきっかけとなったのは、私がこの映画に感じていた素朴な疑問からだった。それは「なぜ主人公は床屋でなきゃならないのか?」「なんでUFOが出てくる必然性があるのか?」「なぜタイトルは”そこにいなかった男”なのか?」という三つであった。そこで私はその疑問を解消すべく一つ一つ検証していく事にした。

最初の疑問である「なぜ床屋なのか?」から始めたい。私が床屋という観点から注目したのは「切り落とされた髪は切られた後も少し伸びる」というセリフ、そして床屋のくるくる回る「看板」である。ではこれらが映画のテーマとどう関わると言うのだろうか。とりあえず私は以前から不思議に思っていた、あのくるくる回る床屋の看板の意味について調べる事にした。

ご存知の方も多いだろうが、昔は髪を切るのはお医者さんの仕事であり、くるくる回っている赤と青と白は動脈、静脈、そして包帯を意味している事がネットの検索で判明した。つまりあの看板はもともとは病院の看板であったが、やがてお医者さんの仕事が分離し、髪を切る仕事だけになったという経由があり、看板はその名残りだったのだ。しかしそれでは看板本来の意味である「動脈・静脈・包帯」とはまったく関係なく、JAROに訴えられそうなくらい看板に偽りありである。それでも私たちはあの看板を見れば「あれは床屋さんだ」と認識している。その意味さえ知らずに。つまり我々は物事の本質よりも、刷り込まれたイメージで物事を判断しているのである。劇中で弁護士が真実を無視して勝手にストーリーを作りあげ、それを信じさせるのも、ある意味床屋の看板と同じ事と言えるだろう。そしてそれは切り落とされた髪という本人の手を離れた物が本人の意思とは関係なく伸びる事にも通じている。

さらに床屋の役割として髪型を作る事が挙げられる。髪型というのは一種の看板のようなもので、自分を人にどう見せたいかで決まる。爽やかにしたければ短く、ワイルドにしたければ長髪、ヤンキーなら金髪、パンクならモヒカンといった具合にそういう髪型さえすれば、それを見た人はその型にあった人物像を思い描く。つまり人は相手の本質を見ずに髪型だけで判断してしまいがちで、それは本質と関係ない床屋の看板と同じで、認知さえされれば中身がどうだとかは関係ないのである。このように考えると敢えて主人公を床屋にした意味は、人は看板に騙されやすいというメッセージのためと言えるだろう。

次に「UFOの必然性」だが、これはここまでの推移からすれば簡単だった。UFOはくるくる回る物体であり、くるくる回る床屋の看板と同じように人の目を引き付ける広告塔のようなものである。人はくるくる回るものに惹き付けられてしまう習性があるとすれば、主人公がドライクリーニングに惹きつけられたのも、ドライクリーニングは洗濯物をくるくる回す機械だったからと説明できる。このように人を幻惑する存在の象徴としてUFO、看板、そしてクリーニングというくるくる回る物を集めてみました的な意味から必然性があったと言えるのではなかろうか。そして付け加えれば、UFOやドライクリーニング自体は本物でも、そこから派生した話はまったく別の話だと言う事である。髪は本人の物であるが、切り落とされた時点でそれはもう別の存在であり、そこから伸びた物はもう実体とは関係ない物なのである。

では三番目の疑問「そこにいなかった男」の意味を考えてみたい。これまでの検証から判断すれば、この物語も真実の物語ではなく、主人公のでっちあげと考えるのが自然だろう。そもそも劇中の主人公は事の顛末を雑誌に投稿した事になっており、饒舌に語るのは一語いくらの小銭のためだと自ら語っている。だが、これから死刑になろうとする人間が一語何セントの小銭を気にするだろうか?そう考えると主人公は実際には死刑になっておらず、死刑どころかほとんどは彼の創作であり、一語何セントかの小銭を稼ぐために書いたという可能性の方が高いように思えるのだ。おそらく何%かは実際にあった出来事かもしれないが、この物語はその真実とはかけ離れた、切った髪が伸びたような話だと推測できる。ここで、この男が書いたとされるこの手記が掲載されている雑誌を想像してみてほしい。それは聞いた事もないような三流の男性誌であり、週刊プレイボーイのようなメジャーな雑誌では決してない。この物語はマイナーな雑誌のページ合わせのように後ろの方に掲載された、いわゆる読者の体験記のようなものであり、それはどこの誰が書いたかもわからないような記事である。そして主人公は劇中で自分を幽霊のように語っている事から導き出される答えとは何か。「そこにいなかった男」と言う、どこの誰かもわからない幽霊が書いた記事、そういう記事を書く人と言えば・・・

「そりゃゴーストライターだろ!!!!!」

つまりこの物語はそこにいなかったゴーストライターが書いた三流男性誌のでっち上げ体験記だったのである。読者の興味をそそるために作られた都合のいい体験記を、まるで真実かのごとく厳粛に受け止めてしまった自分の耳には、またしてもコーエン兄弟の高笑いが鳴り響いていた。「そんな雑誌の体験談を本気にするなよ!w」と。くそ!またコーエン兄弟に騙された!!

しかしこれこそが人生をポジティブに切り開く方法だった。つまり人を信じさせるには、必ずしも本物である必要はないという事なのだ。物事の本質とか真実は二の次で、要は相手を自分の思うように信じさせれば勝ちなのだ。これこそが私がこの映画で学んだ人生哲学である。もちろんコツコツと地道に努力して本物になるに越したことはないし、本来そうすべきである。しかし努力しても誰もがイチローのようになれるものでもない。ではイチローになれない者はどうすればいいのか。手っ取り早い方法は「なりすまし」である。オレオレ詐欺や練炭自殺に見せかけた結婚詐欺事件、検察による証拠ねつ造事件などはその典型と言えるだろう。これらは悪い見本ではあるが、自分の思ったように相手を操るには、それらしく見せる事が重要だということがわかるだろう。

ここで私は今までの人生を振り返り、なぜ女のコにモテなかったか考えてみた。それはありのままの自分でいすぎたからだ。私は真面目で正直でいれば、その良さに気付いてくれる人がきっといると思っていた。しかしそれは間違いだった。例えば買い物に行った時、聞いた事もない会社の商品が「この商品は真面目で正直に作りました」と書いてあったとして、果たしてそれを鵜呑みにする人がどれだけいるだろうか。いや、それ以前にそんな商品に目が止まるかどうかも怪しいだろう。むしろ中身がどうかよりもCMでガンガン流れている商品を「面白そうだ」と試しに買ってみる事の方が多いのではなかろうか。その違いは何かと言えば、イメージが認知されているかどうかなのである。劇中の弁護士が陪審員の心を掴んだのも「床屋はそんなことをしない」というイメージだった。陪審員は床屋という職業と主人公の見た目だけを見て判断し、本質を見ようとはしなかったのである。

そりゃ、ありのままでモテる人はいい。しかしそうでない人はありのままの姿のままではダメなのだ。モテる人というのは、ルックスや頭脳、財力や身体能力など、何か人目を惹く要素を必ず持っており、持っているだけでなく、それを周囲に発信している。斎藤祐樹くんのように「持ってる」人は、その持ってる事が大量CMと同じくらいの効果を人々に与えているのだ。一方私のようなモテない人は何も持ってないし何も発信していない。それどころか逆に「暗い・口下手・汚い」といった3Kのようにマイナスのイメージを発信している可能性の方が高いのだ。では何も持たない私はどうすればいいか。それは映画を好きな人にとっては当たり前の言葉である「演出」こそが重要であった。どんなクソ原作であろうとも演出さえよければ面白くすることはできるだろう。いかに自分という原作がショボくても、演出次第で変わることはできるのだ。

何も嘘を言えと言うのではない。彼女の夢や理想に自分の姿を似せ、彼女の理想を叶えるのは自分であるがごとく思わせればいいのだ。例えば「自分は将来弁護士を目指しているんだ」とか、「近い将来自分で起業しようと思っているんだ」とか、「いつか君を主人公にした映画を撮りたいと思っているんだ」など未来のビジョンを見せる事で印象はガラッと変わるだろう。と言っても思うだけではダメである。今はゼロでもいい、とにかくそれに向かって本気で進行中でなければメッキはすぐに禿げるだろう。相手の心を掴むには何かしら目立つ看板が必要であり、「この人は本気だ」と思わせる何かを身につける事が必要なのだ。そしてその本気で何かに打ち込む姿こそ、我々がイチローに描いているイメージそのものなのだ。イチローと同じように10年連続200本安打を打たなくても、そのイメージを重ねる事で、自分とイチローが同等であるかのような印象を相手に与えることは可能なのだ。

「そんな事言ったって、今まで出来てないじゃん」

その通りだ。今まで生きてきた過去こそが我々の本質であり、真実である。しかし、切り落とされた髪が伸びるように、今までの自分を断ち切る事で我々は成長できるのだ。今までがどうだったかは関係ない。これからの伸びしろこそが大事なのだ。そして相手にビジョンを与えるためには、まず自分が未来のビジョンを思い描くことである。そうする事が自分の人生において、自分を「そこにいなかった男」から「そこにいる男」に変える唯一の方法なのだ。どんな未来でも、自分が本気で信じれば、それが真実なのだから。映画とまったく関係のない話になってしまったが、それがこの映画を観た私が辿り着いた真実である。(2010/12/29)

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