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[コメント] 北京ヴァイオリン(2002/中国=韓国)

ヴァイオリンの音色を邪魔する生活音すら巧みなカット割りで音楽的に魅せる映画の愉しさを堪能させるが、音楽そのものは結局このベタな浪花節の物語の添え物でしかない。編集のみならず個々のショットの魅力は流石だが。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







会話する声や街の喧騒、宿の客たちのイビキ、ヤカンが鳴る音、猫の鳴き声や臭い靴下、貧富の差、等々の非音楽的な環境に取り囲まれながらも、それでも力強く鳴り響くヴァイオリンの音色。

そして遂に、純粋にヴァイオリンの旋律にだけ耳を傾けられる瞬間がやって来る。チアン先生との最後の授業だ。シャオチュン少年が「豚小屋」だと罵った部屋を奇麗に整え、身なりも清潔にして、穏やかな笑みを浮かべる先生。そのシーンでの、柔らかい暖色の光が美しい。で、今、「暖色」と変換しようとしたら最初に「男色」が出てきたのだけど、何かそういう雰囲気すら感じてしまう場面ではある。

絶えず何らかのノイズに充ちていたこの映画が、遂に音楽に耳を傾けさせる場面。だがそれを断ち切るのは皮肉にも、シャオチュンの父が息子の社会的成功を求めて、新たな先生としてユイ教授を説得する場面の挿入なのだ。そして、いつも先生の家の中を歩き回っている猫の鳴き声が、柔らかく現実へと引き戻す。

教授の家でシャオチュンもまたコンクールに向けて、散髪してもらい、良い服を着せてもらって、身なりを整える。思えばこの映画の冒頭も、散髪中の彼が父に呼ばれて駈けだす場面から始まっていたのだった(この冒頭のシーンのショットから、画作りの巧さが光る)。だが教授の家はブルーがかった寒色系。社会的成功に近づくにつれて温かみのある場所から離されてしまうシャオチュンの情況がよく分かる。

シャオチュンの父が教授宅へ息子を訪ねる場面では、置いてきぼりにされて不貞腐れているらしい息子は父の顔を見ようとせずにテレビを点ける。テレビの音と、もう一人の生徒である少女が背後でミキサーをかける音、父が息子に話しかける声が、それぞれ三つのドラマを成しまたその三者が絡み合うドラマをも成している。こうした音と画面の組み合わせの的確さには一々感心させられる。

この父がリン教授を先生にしたいと決意する場面でも、バイトで配達に来たコンサート会場で、演奏の音色に惹きつけられて会場に入り、その熱演に拍手していると教授が師として舞台に呼ばれる。その後トイレで、商業的な演奏をその弟子に対して批難する教授、彼が更に何か言い添えようとしたところに父がトイレを流す音で会話は中断し、二人が消えた後に置きっ放しにされた花束を父が手にしてその自分の姿を鏡に映す、という流れで、画面と音で語る部分と、台詞で語る部分との按配に感心させられる。

シャオチュンが出場するコンクール前日に田舎へ帰ろうとする父と、その荷造りを手伝うシャオチュン。二人の様子を窓の外から捉えることで、室内の暖かさを想像させ、更にはこの二人がどちらも赤いセーターを着ている。シャオチュンが部屋から出るときには彼は上に緑色のジャケットを羽織っていて、その様子は室内から撮られている。こうしたさり気ない要素で二人の心情を暗示しているのが見事。

劇中、音楽による社会的成功と、音楽それ自体の本質としての魂というものが対比されていたが、この「魂」が結局は大衆的な感動話、浪花節な親子の情に還元されてしまうのには全く共感できない。最も感動的である筈の、最後の北京駅でシャオチュンが父に捧げる演奏で、却って僕の気持の冷めようも極まった。この二人を称えて拍手する駅の群衆を見て、ああ、完全に大衆演劇だな、と。その「大衆演劇」である京劇そのものを主題に据えた『さらば、わが愛 覇王別姫』の方が逆に、芸術の厳しさや、舞台の魔物的な魅力を描いてくれていたのだが。

ローアングルを活かした躍動的なカメラワークや、リリが、口紅で電話番号を書きつけた鏡の前でパーマのロッドをパラパラと落とすショットなど、瞬間的に脳裏に焼きつく映像の魅力も素晴らしいだけに、「身を粉にしてまで捨て子を育てる父の愛」とか「庶民的な幸せは何物にも代えがたい」といったベタな物語への収束の仕方には納得がいかない。別に、こうした方向へ収束していくこと自体は必ずしもいけないわけではないのだが、そこへ持っていくための説得力を生み出すには、あまりにもベタな人情に頼りすぎなのだ。

チアン先生の貧乏芸術家ぶりは魅力的で、彼が路地の水溜りにレンガを置いてその上を渡る場面や、練炭を焼く場面、シャオチュンが猫を檻に閉じ込めたのを「ファシストか」と批難する台詞、更にはあのボサボサ頭も含めて、色々と印象的だった。

最後に一言。音楽でしか人の心に呼び起すことの出来ない感情、というものがある。それは現世の喜怒哀楽を越えた所に人を連れて行ってくれるもの。この映画ではそうした崇高さというものがまるで感じられず、浪花節的な感情の表象としてしか音楽が扱われていないように思う。話自体のベタさに加えて、この辺が僕には違和感がある所。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)赤い戦車[*]

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