コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 紅の豚(1992/日)

あの『ルパン三世』からもアダルトさを払拭し、少女をヒロインに据えつつ敵役を「ロリコン伯爵」として、映画自体のロリコン性を軽減した宮崎駿。「大人の男」の顔を回避した、黒眼鏡で表情を隠した豚によるファンタジーとしての「男の浪漫」。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







声優には、これでもかというほどに渋い声の持ち主を起用。大人の女として登場したジーナは結局は無色透明の母性として物語の後景に退き、ポルコとの過去の回想シーンでは、二人とも少年少女。成人男女の出逢いは宮崎には描けそうにない。ポルコ自身の回想シーンでは人間時代の彼が登場するが、やはりヒゲ以外は爽やか青年以上の顔ではない。まともに大人の男の顔は扱えないのが宮崎駿。他作品でも「お父さん」は柔和で無色透明な存在でしかないし。

久々に劇場パンフレットを引っ張り出してみると、宮崎の演出覚書なるものの中に「疲れて脳細胞が豆腐になった中年男のための、マンガ映画」というコンセプトが示されている。中年男も脳が豆腐になると幼児化してしまう面はあるのだろうけれど、ここまであられもなくやられてしまうと、観ているこちらがちょっと恥ずかしい。

初っ端の、空賊マンマユート団が人質として子供らを飛行艇に乗せるシーンでの、子供らのはしゃぎっぷりや、「全員乗せるんですか?」と問う手下に「仲間外れができちゃ可哀相だろ」と返すボス。ここで既に本作の「闘い」が一種のゴッコ遊びなのだと察知できる。ポルコの機を発見するのも、見張り役の空賊ではなく子供。戦闘シーンに被さる音楽も、実に長閑。ポルコの危機はエンジンの不調にあり、空賊との闘いそのものには、命のやり取りとしての緊張感は皆無。

「マンマユート MAMMA AIUTO」とは「ママお助け」とかいう意味らしいが(『天空の城ラピュタ』の空賊の母権的体質を想起させる)、作品そのものにもマザコン的雰囲気と、男たちの未成熟さが色濃く表れている。ジーナの店で、荒くれ男たちが皆「いい子」でいる様子。不調のポルコ機を見つけて撃ち落したカーチスが、その破片を拾って「おふくろに良い土産ができたぜ」と感無量の様子でいる姿。フィオが、ポルコのアジトで彼を待ち構えていた空賊たちがポルコの機を破壊しようとしたり、ポルコをリンチしようとするのに向かって抗議する、「お母さんが聞いたら泣くわよ!」。そのフィオに一目惚れしたカーチスは、彼女との結婚を賭けた決闘の前に「愛よりも慣れだっておふくろが言ってた」。また、ポルコの機を修理するのも女たちだが、そこに参加している鷲鼻の婆さんは、宮崎作品に頻出する典型的キャラクターだ。

母なるものという保護膜に包まれた遊び場で男らしさを競う男たち。その一方、ヒロインとしては、中学生レベルから成長していないような男たちの身の丈に合った元気少女フィオが前面に出る、というこの構図。ロリコンとマザコンとは同じコインの表と裏なのだ。だが、そうした面をマンガ的約束事として受け流して観れば、そう厭な作品ではない。

プロペラ機による空中戦という共通項を持つ『スカイ・クロラ』と比較すれば、押井守と宮崎の嗜好の違いもよく分かる。プロペラが風を切る音や銃声に、殺気が感じられない。反面、エンジンが火を吹きながら凶暴なまでに回転し、凄まじい風を巻き起こす様や、飛行艇が水面を滑走するシーンでの水飛沫の派手さなど、火、風、水という自然の荒れ狂いようを「機械」によって描く点に宮崎の作家性が表れていて、作品に旨みを加える。飛行シーンでの、水面の輝き、機体の輝き、ポルコのゴーグルの輝きなど、陽の光の強さで空の高さを描くところもいい。

(評価:★3)

投票

このコメントを気に入った人達 (2 人)DSCH[*] ダリア

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。