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[コメント] 秋日和(1960/日)

原節子は、『晩春』の娘役で見せた存在感を、今度は母親役としての威厳と包容力として見せている。本作の孕む幾つもの「反復」の中で、これこそ最も感動的なものかもしれない。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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中盤辺りから画面の色彩が、緑と赤を両極とした統一感を際立たせてくる。絶妙な呼吸で、この二色で構成されるシーンとそうではないシーンとが交替していく。

以前、小津についてのシンポジウムをNHKで観る機会があったのだけど、その中で吉田喜重監督が「小津の映画は、差異と反復です」と指摘していた。この「差異と反復」というのは哲学者ジル・ドゥルーズ(主著のひとつが『シネマ』)の概念の援用だろう。監督は『AERA Mook 6 哲学がわかる。』に寄稿した文章の中でもドゥルーズの名を登場させていた。まぁそんなことはいいんですが、この映画が『晩春』の「差異と反復」である点は一見して分かるところ。

この『秋日和』自体の内にも、「反復」による演出を見ることができる。アヤ子(司葉子)と百合子(岡田茉莉子)が、嫁いだ同僚が乗る電車を見送るシーンでは、その同僚が「花束を振る」という約束を果たさず姿を見せないことに落胆して、女の友情の儚さを嘆くが、後にアヤ子が母・秋子(原節子)の再婚話に悩むシークェンスでも、同じ場所から電車を見つめるシーンがある。嫁ぐということと、電車(今居る場所から去ることの暗喩)の等置が反復されているわけだが、隣りに百合子の姿はないという差異もある。母の再婚話に憤るアヤ子が、百合子と一時的に決裂することとの絡みもあるのだろうが、友情を壊すものとしての結婚に怒ってみせていた百合子との関係から切れた状況で、独り、結婚について思案するという、アヤ子の心境の変化に於いても重要なシーンだ。

そのアヤ子が結婚に先立って、母との最後の旅行をするシーンでは、旅館に響きわたる女学生らの明るい歌声が聞こえるが、結婚式のシーンでも、少女らの合唱する声が聞こえている。旅館シーンでは、歌声を聞いたアヤ子が「修学旅行の最後の日は、これでお終いと思って寂しい」と語っていた。この「寂しい」と共に、結婚の幸福をも明るく指し示すのが、あの歌声なのだ。女学生を登場させること自体、まだ結婚などとは遠かった娘時代への追憶を思わせる。『晩春』の京都のシーンでも、修学旅行と思しき女学生たちの姿を見ることができる。ここにも反復がある。

旅館で秋子が娘に対し、再婚はしないと語る台詞での「また麓から山に登るなんて沢山」は、結婚と山登り(アヤ子が同僚の結婚祝いとして参加したのも登山)が等置されることで、結婚生活の開始には若い気力が必要なのだという諦念も感じられる。だが、「お父さんと生きていくわ」という秋子の宣言には、独り、亡夫の思い出に浸ることへの安堵のようなものも見てとれる。人生の秋。再婚話を持っていくつもりだった田口(中村伸郎)も、秋子が亡夫のことを涙ながらに語る様子に退却させられたのだった。

「きたならしい」と娘が反発する、親の再婚話。親の自己犠牲的な役回り。その親を娘の親友が応援すること。『晩春』の反復としてのこの映画。アヤ子の結婚後のシーンとして、あのお節介焼きな男たちが酒を酌み交わしながら語り合う光景が挿入されているが、「面白かった」という、どこか無責任な台詞に続いて、「他にまたないか」という発言まで飛び出すのには、この三人の会話シーン自体が序盤のそれの反復であることも相俟って、反復の永遠性に戦慄させられる。

(評価:★4)

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