[コメント] 潜水服は蝶の夢を見る(2007/仏=米)
眼前の対象に働きかける事が出来ず、視覚と聴覚、記憶と想像力を頼りに紡ぐ経験。この主人公の境遇は、映画の観客が置かれる状況にも少し似ている。言葉の価値を「目に見える」形で表現し得た映画としては、『華氏451』の十倍以上素晴らしい。
**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。
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観客がジャン(マチュー・アマルリック)の孤独に共感できるのは、彼によるナレーションが観客にしか聞こえておらず、眼前の人物たちには聞こえていない事による。彼が言葉を獲得していくに従って、観客が主観ショットから解放されるのは、まさに‘言葉’が、他者や世界との間をイマジネーションによって蝶のように巡る第二の身体である事の証左だ。
ジャン(≒観客)に向かってアルファベットを辛抱強く何度も読み上げる人物の、声と眼差し。言わば血肉を備えたタイプライターとして彼・彼女らはジャンに向き合う。これは逆転した『華氏451』なのだ。
それにしても、主人公の身体性を直に感じ取らせるカメラワークやフォーカスの自然さが素晴らしい。これを観ればもう、全篇主観ショットによる『視線のエロス』が固定撮影であった事の詰まらなさを再確認させられる。
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