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[コメント] カールじいさんの空飛ぶ家(2009/米)

シンプルな原題「UP」に込められた多義性。飛ばない家はただの家だ。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







「UP」を辞書で引いてみると、「…へ向かって」「…の奥地へ」「遡って」「元気に・勢いよく」「…が起こる」等々の使用例が記してあり、「UP」の一語によって、本作のイメージの数々を連想させようとした意図が感じられる。夥しい風船によって家が「UP」することと、過去に生きるカールが惰性を断ち切ることで亡妻エリーの魂を「UP」させること。そのことで、むしろ亡妻の魂をしっかりと自身の内に掴み戻すこと。風船は、少年時代に於けるエリーとの思い出の品であり、カールが子どもたちに手渡していた物でもある。二人の間に子どもは出来なかったが、カールはラッセル少年の為に、風船化した家を手渡した(手放した)とも言える。

終盤の空中戦は宮崎駿のそれを思わせる。『紅の豚』よろしくプロペラ機も飛び交い、豚ならぬ犬が操縦。それを「あ、リスだ」の一言で犬どもの注意を逸らして容易く撃退してしまうのは、悪い意味で子供騙し的。最後に悪の親玉マンツが遥か下へと落下していくのも例の宮崎映画のラストシーンを連想させられる。尤も本作では、幾つか風船が彼の身に絡まっているという慈悲はある。

このマンツの扱いがやや可哀相だという印象は確かに否めない。幼き日のカールとエリーの憧れの対象であり、二人を結びつける遠因ともなった存在であり、また、彼の性格が歪んでしまったのも、巨大怪鳥の骨格を持ち帰った業績に対して人々から詐欺師呼ばわりされたのが原因なのだから、彼も幾らかは被害者だ。

だが、自らの巨大飛行船の中に骨格標本やら何やらの獲得物を展示し、犬どもに囲まれて暮らしているマンツの在り方は、本作で描かれるカールの心境の変化との対比という面もある。カールは、妻エリーとの思い出の象徴である「家」に引きこもったまま冒険に出、南米の地に着いてからは、風船のように浮かぶ家を、ホースを紐代わりにして持ち歩き、そして遂には、マンツに囚われた怪鳥を救いに行ったラッセルを助ける為に、家財の一切を投げ捨てて軽量化した家に乗って飛んでいく。家が冒険用の船に擬される様は、冒頭シークェンス中の、少女エリーが家で一人大声を上げて冒険ごっこをしているシーンの反復でもあり、そこがなおさら感動的でもある。

「家」が、亡妻に対するカールの執着心の象徴であることは容易に見てとれるが、そうした「物」への執着を断ち切ることで、本当の意味で妻の存在(=魂)を「冒険心」という形で取り戻すカールの内的過程は、冒険の渦中で否応なく、家を浮上させる風船を徐々に失っていかざるを得ないことによっても感じ取れる。南米に着く前に、家が雷雲に突入してしまうシーンでは、一度は真っ白な雲の上という、それこそ天国のような場所に至った後で、カールは風船の紐を幾つか切り離し、家の高度を下げる。

そうしてカールは雲上から離脱するのだが、そもそも雷雲に巻き込まれたのは、ラッセルの声を聞きたくないが為に補聴器の感度を下げていたせいで、ラッセルの警告が聞こえなかったから。そして、気を失ったカールの代わりに、ラッセルが「天国」へと家を避難させていた。「家」(=内向きの感情)に執着するカールに対し、幼いながらも目の前の冒険という現実にこそ意識が向かうラッセル。

そんなラッセルの、怪鳥をマンツから救いたいという想いを振り切るように、当初の目的地である滝の傍へと、家と共に辿り着くカール。マンツに家を焼かれそうになったカールの悲痛さを一向に解しないようなラッセルのガキっぷりに苛立つ観客も多い筈だが、いざ目的地に着いたときのカールの空虚感には衝かれざるを得ず、それがあるからこそ、ラッセルを追ってカールが再び空へ向かう行為にも必然性が生まれる。

とはいえ、カールがあれほどまでに容赦なく家財を放擲する光景に一切の違和感が介入しないほどの魅力は、ラッセルには無い。元々僕は太った子供が何となく好きになれないんですが(笑)、ラッセルのようにオツムの足りない子が、絶え間なく喋ったり動き回ったりする様は鬱陶しくて仕方ない。こういう「善良なるおバカさん」の行き当たりバッタリな言動で話を転がしていく作劇は心地よくない。

また本作に関して言えば、ラッセルの性格はやはり、初めてエリーと出逢った頃の少年カールに近いものにしておく方が妥当だったのではなかろうかと。それは何も、引っ込み思案で無口だったカール少年の代役としてラッセルに冒険させようという、自己愛的な面からのみ言っているわけではない。カール自身はちゃんと空飛ぶ家で冒険に出るのだから、今さら少年時代を代償行為で取り戻す必要は無い。僕が言うのは、家の放棄によってカールが、冒険少女エリーの魂ともう一度触れ合う、というテーマに沿ってのことだ。

冒険じいさんとなったカールの前に現れた少年ラッセルは、かつての自分とは反対に、必要以上に口も体もよく動く子。そんなラッセルを邪険にしつつも絆を深めていくカールだが、ここでラッセルがもし、かつてのカール少年と同じような消極的な性格であれば、そんな少年を邪険にせずに温かく「隊員」として迎え入れてくれたエリーの優しさを、カール自身が反復することとなった筈。そうすれば、大事な家財をラッセル救出の為に捨てるカールの行為にも、力強くかつ感動的な説得力が生じただろう。ラッセルを無二の仲間・家族として迎えることと、カールがエリーの魂を自らの内に迎えることとが、イコールで結ばれるからだ。

それに、「喋る犬」というファンタジーもあまりに絵空事めいていて、あまり良い印象を受けない。「空飛ぶ家」というファンタジー以外は、いかにも作り事な要素は入れてほしくなかった。それに、家を棄てることがテーマの作品とはいえ、やはり乗り物としての活躍が少なすぎる。観客がカールらと共に家の中の生活感に馴染んでこそ、最後にそれを棄てるカールの行動も、より感情を揺さぶる筈なのだが。

妻の死、少年(しかも東洋人と思しき容姿)との交流、主人公は苦虫を噛み潰しながら暮らしているような爺さん、と、どこか『グラン・トリノ』を想起させられる面もある。まあ空飛ぶ家がグラン・トリノに相当すると言えるのかは分かりませんが、イーストウッド演ずる爺さんもグラン・トリノを「彼女」と呼んではいなかったか。

(評価:★4)

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