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[コメント] 戦艦ポチョムキン(1925/露)

モーゼの居ない『十戒』のような、正に群衆の映画。全ての群衆がモーゼなのだ。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







今から約八〇年も昔の作品だけど、全く古さを感じない。確かに脚本は、かなり直線的で単純だけど、映像から立ち篭める異様な熱気の前では、そんな些細な事はどうでも良くなってしまう。映画史上、必ず避けては通れない最重要作品として神棚に祭り上げられている作品ではあるし、ついついお勉強気分で観始めてしまうけれど、いざ鑑賞に入ってしまえば、一個のスペクタクル作品として、案外普通に楽しめてしまえる作品でもある。それに、特に中盤以降は、個々のシーンが絵画のように美しく、ただ鑑賞しているだけでも味わい深い場面が多い。カット割りも非常に細かくて、一個の状況を様々な視点から認識させられると共に、視覚的にも面白く、小気味の良いテンポを生んでいる。

劇中の「日本の捕虜になったロシア人でも、これよりマシな物を食っている筈だ!」という台詞に、ちょっとウフッて思っちゃいましたね。ロシア革命の成功は、日露戦争でロシア帝国が、東洋人相手に思わぬ苦戦を強いられ、その国威が弱まった事が一因だと言われているわけで、そうした歴史的背景が感じられる台詞。

この映画は五部構成になっていて、第一章は「人々とウジ虫」。ウジが湧いた腐った肉を食わされる海兵隊員たちが、そうした食糧事情も含めた、人間扱いされていない現状に不満を抱く様子が描写される。要はこれが、反乱の引き金になる。甲板にワラワラと集合する、白い制服の水兵たちの群れは、肉にたかるウジ虫の映像と、絵的に重なって見える。あのウジ虫たちは、上官たちから虫ケラ扱いされる水兵たちの暗喩なのかも知れない。

また、この映画は特定の主人公というものが存在せず、革命の情念に導かれた人々の群れそのものが主軸となっている。出演者の殆どは素人らしい。革命時の民衆(つまりはプロレタリア)の熱狂を、半ばドキュメンタリー的に再現し、そのままフィルムに焼き付けるという、いかにも唯物史観的な映画とも言える。映画の冒頭には、「革命は、唯一の合法的な戦争である」というレーニンの言葉が掲げられているし、劇中の、革命の先駈けとなった男の遺体に人々が敬意を表す場面は、この映画の前年に亡くなったレーニンの遺体が永久保存され、その廟が民衆の巡礼地となった事を連想させられる。尤も、この男自体はむしろスターリンに似ているのが、なんだか皮肉。

それにしても、レーニンの死の翌年、という事で、この映画がどれだけ古いか実感させられる。と同時に、矛盾しているようだが、八〇年ほど前にはまだレーニンが生きていたんだな、と、事件を素早く「歴史」に変えてしまう、現代史の流れの急激さをも思わずにはいられない。

しかしまた、この映画の民衆は、顔の無い一塊の群れとして描かれているわけではない。むしろ、一人一人の顔は強烈にその個性を主張している。上官から犬のように扱われて、悔しさに泣く青年。死者に向けて、静かに涙を流す老婆。革命の熱に駆られ、声高らかに演説する男。我が子の悲劇を目の当たりにし、気も狂わんばかりに表情を引きつらせる女。そうした老若男女の様々な顔が、一つ一つの色彩やメロディーのように合わさって、革命という大きな出来事を織り成している。これほどまでに、一々キャラの立った濃い人間が顔を出すモブ・シーンは、中々見られるものではない。群衆一人一人の表情は、まるで何かの事件の現場で隠し撮りしてきたかのような、地に足の着いた現実感と、演技術によって整形されていない、生々しい肉体性を感じさせる。「『戦艦ポチョムキン』の数ある成功の一つは、誰によって制作されたという気もしなければ、また誰によって演じられたという気もしないことだ」(ジャン・コクトー『阿片』訳・堀口大学)。

最後の、黒海艦隊と対峙する場面の緊迫感は、今観てもドラマチック。それと比べて、平和ボケした日本で作られた『亡国のイージス』の緊張感の無さよ。

(評価:★4)

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