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[コメント] 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(2007/日)

どうしても「テレビ的」という語が頭に浮かんでしまう。それは画面に映画(フィルム)らしい艶が希薄なことと、再現ドラマ的な情報提示の形式(=「実録」)のためであるが、それがどうしたと云わんばかりの力強さに溢れた映画でもある。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







殴打の音響には不満を覚える。若松孝二は「目を背けたくなるような」暴力を文字通り「目を背けずに」描く(無惨に変わり果てた坂井真紀の顔面の長い長いクロースアップ)。しかし観客は、作家が目を背けずに描いたものに対してさえも目を背けることが「権利的に」できる。ここで「権利的に」とは「生物学的に」と云い換えてもよいだろう。要するに、私たち人間には視覚刺激を意識的/無意識的に遮断する機構(まぶた)が生来的に備わっているということである。翻って映画を前にしての私たちは、その聴覚刺激を遮断する方法を「権利的に/生物学的に」持たない。それがつまり聴覚刺激が原理的に視覚刺激以上に有している「暴力性」のはずなのだが、この山岳ベース・シーンでの殴打音響演出はそこで繰り広げられる暴力の途方もなさを現前させるには至っていない。

一方で、あさま山荘シーンにおける銃撃の音響はすばらしい。その一発一発の響きのなんと虚しいことか。また、そこでカメラは彼らが撃たんとしている対象を決して映さない。彼らにはリンチにかけるべき対象は分かっても、「銃による殲滅」をすべき対象は決して分からなかったのだ(cf.語としての「遠山」や「寺岡」の具体性/「権力」の抽象性)。

最後に、少年が「みんな勇気がなかったんだよ!」と叫ぶシーンについて。勇気がなかった、「なるほど、そうだよね」とも「それだけか?」とも思う。しかしながらそこにおいて引いたカメラが明瞭に示しているように、そのとき少年はばっちり決まった台詞を放ちながらも、同時に「片手で握り飯を掴んでいる」というなんとも間の抜けた格好をしているのだ。映画におけるバランス感覚とは、批評性とは、すなわちこういうことであろう。

(評価:★3)

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